「警部! 大変です!!」
レストレード警部が、警視庁の自室で、デスクに深々と体を沈め、鼻毛なんかをひっこ抜きながらくつろいでいると、突然、警官隊の一人が、勢いよくドアを開けて息を切らせながら飛び込んで来た。
「な、なんだ。一体。騒々しい」
「や、奴が、モリアーティが……」
「モリアーティ」と聞いた途端、警部は慌ててイスから立ち上がった。
「なに! アヤツがまた何かしでかしたのか!?」
「い、いえ。あの、そ、そうではありはせん」
警官は、乱れた息を整えながら、
「モリアーティが、何者かによって……さ……殺害されたのです」と、言いにくそうに告げ、敬礼した。
「ははははは……」
警部は脱力した笑い声を上げ、再びイスに沈み込んだ。
「何を言うかと思えば……。貴様、寝ぼけとるのか? 寝言は寝てから言え。モリアーティが殺されるようなタマか? アヤツが殺人をしたのならいざ知らず……いやいや、それも考えられんな……」
「警部! 我々も、こんな重大なことを、いいかげんなことでは御報告致しません。確かな証拠があるのです」
警官は手にさげていた紙袋から、ビニールに入れられた白い布を出して、レストレード警部のデスクの上に広げてみせた。
「こ、これは……」
警部は急に表情を険しくして、証拠物件を手に取った。
「今朝方、テムズ川の下流で発見されたものです。これから鑑識にまわすところですが、その前に、警部にご覧いただこうと思いまして……」
それは、白のシルク地に赤の裏地の施されたマントだった。着ると調度、左の肩甲骨の辺りになる場所に、銃創があり、他は染みひとつないほど真っ白なのに、そこだけ裏地が透けているかのように、赤黒い血液の染みが付いていた。
「……バカバカしい。こんなものが証拠になるか。こんなマントぐらい誰でも持っとるわい」と、警部は失笑してはみたものの、内心は自分でも不思議なほど動揺していた。
「もちろん、そのことは我々も考えました。しかし、ネームを見て下さい」

金の刺しゅう糸で美しく縫い付けられていた。
「……モ、モリアーティなんて名前はアヤツだけじゃない……探せばどっかにもう一人ぐらい……」
「確かにそうかもしれません。ですが、衣類のネームに称号をつけるなんて……」
「自己顕示欲の強いアヤツしかありえんか……」
警部は、嘆息を吐くようにそう呟いて肩を落とした。
「しかし、アヤツが殺されるなんて信じられん……そうとも、オレは信じんぞ! アヤツは悪の天才モリアーティだ。死んだりするはずがない! 貴様もそう思うだろう」
「は、はぁ……」
「そうだとも。アヤツは死んではおらん。いつか必ずこのオレが捕まえる。それまで死ぬはずがないじゃないか!」
そう言って顔を上げた警部の目は、心なしか潤んでいるようだった。その実直でひたむきな瞳は、警官の胸を締め付けた。
「警部……」
うなだれて、肩を震わせている警部に、警官は何と慰めの言葉をかけたものかと考えあぐねていた。ところが、警部はいきなり顔を上げ、いつもの様なドスの効いた押しの強い声で、
「何をグズグスしている、さっさとここにいる警官隊を全員招集しろ!」と、怒鳴った。
「へ?」
「モタモタするな! 一分でも早くアヤツの遺体を捜し出すんだ。アヤツを殺した犯人はオレが必ず引っ捕らえてやる!」



午前十時。難事件を解決しおわったホームズとワトソンが、プロトベンツに乗ってテムズ川の前を通りかかると、大勢の警官隊が、必死で川さらいをしているのに出会った。
「はあー、すごい人数だなー。何を探してるんだろう」
「さあね。なんにしても、レストレード警部の警官隊でしょ。事情は警部に尋くとしましょう」とホームズは、橋の方へハンドルを切った。
二人は橋の中央まで来て車を路肩に寄せ、欄干越に川をのぞき込んだ。すると、ちょうど橋の下をレストレード警部がランチで通り過ぎて行こうとしているところだった。
「警部、レストレード警部! 一体何を探してるんですかー!? お手伝いしましょうか?」と、ワトソンは車の上から呼びかけた。 その声に気が付いた警部は、すぐに船を川岸に寄せ、猛烈な勢いで橋まで上がって来て、
「ほ、ホームズ……さん、良い所で会った。君、いや、貴方のお力を是非貸していただきたい」と、息を弾ませながら言った。
「良いですよ。そのつもりでお声をかけたんですから。僕がピピッと犯人を捕まえましょう」と、気前良く依頼に応じるホームズ。ところが、警部の顔が途端に厳しくなった。
「犯人はオレが捕まえる! 誰にも手出しはさせん!!」
「はぁ? じゃ、僕ぁ何をするっつーんですか?」と、ホームズは怪訝な顔をする。
「遺体だ。犯人をつきとめるためには、被害者の遺体を発見しなくてはならん」
「それを僕に捜せとおっしゃるってな訳ですね」
「ああ、そうだ。もちろん協力していただけますな!」
「殺人事件なんて珍しいな、ホームズ。て、ことは、今回は犯人はモリアーティじゃないな。うーん、それも珍しい……」と、何も知らないワトソンは感心して言った。
「しかし、遺体もめっからないうちから、よく殺人事件と解りましたね。何かキラッとひらめく理由がありますね」
さすがは名探偵ホームズ。目ざとい突っ込みだ。
「うむ、遺体はまだだが、被害者の遺留品はあるのだ。ちょっとそこで待っていてくれ」と、警部は小走りに橋のたもとのパトカーのところまで行き、例の紙袋を持って戻って来て、
「これがその遺留品だ」と、紙袋ごとホームズに手渡した。
「ワトソン博士、さっき貴方は、『犯人はモリアーティじゃない』と、おっしゃったが、まさにそのとおりなのだ。犯人は誰かはまだ解らん。だが、アヤツではないことだけははっきりしておる」
「そんなにきっぱり断言して良いんですか。もしもってこともあるでしょう」
「警部、ひょっとして、被害者っつーのは……」
袋を探りながらも、二人の話にしっかり聞き耳を立てていたホームズは、遺留品を出しかけていた手を止めて、まじめな顔で尋ねた。
「そのとおりだ。殺されたのは……モリアーティだ」
「は……はははははははは……」
モリアーティ殺害さるの事実を聞いたときのレストレード警部のように、ワトソンは、脱力しきった笑い声を上げた。
「よして下さいよ、警部。今日は四月一日じゃないでしょう。いくらなんでも、そりゃひどい冗談だ」
「君たちが信じられんのも無理はない。しかし、残念だがこれは事実なのだ」
「そんなこと言われたって、信じられないよなあ、ホームズ。百遍倒しても百一遍蘇ってくる不死身のモリアーティが、なあ」
「ワトソン、僕だって信じたくはありません。でも、これは冗談ごとじゃなさそうですよ。とにかく、遺留品を見せていただきましょう」と、ホームズは、出しかけていた遺留品を引っ張り出して広げて見た。
「あはははははははははははははははは……」
今度の笑いはホームズだ。しかし、笑い方はさっきのワトソンのような脱力しきったものではなく、腹の底からおかしくて仕方がないというような声だった。
「お、おい、ホームズ、しっかりしてくれよ。つらいのはわかるけど、君が取り乱しちゃ困るよ」
ワトソンは、てっきり、ショックでホームズがおかしくなってしまったのだと思った。だが、そうではなかった。
「違う違う、違いますよ、ワトソン。ちょっと良くこれを見たんさい」
ホームズは、遺留品をワトソンに渡す。受け取ったワトソンは目の前に持ち上げて広げて見て、
「あ! こ、このマントは……」と、叫び、続いて、
「あはははははははははははははははは……」と、今度は腹の底から笑った。
「笑うなっ! 貴様ら何がそんなにおかしいんだっ!?」
真面目に、心の底から、教授の死を悼んで悲しんでいるのに、茶化されているのだと思ったレストレード警部は、憤慨して怒鳴った。
「見損ないましたぞ、ホームズさん! 貴方はもっとアヤツのことを想っているのだと信じていたのに……アヤツが死んだのが、そんなにうれしいんですか!?」
「すみません、警部。で、でも、これは……やっぱり……くくく……笑っちゃ悪いんですけど、笑わずには……あはははははははははははははははは……」
「……もういいっ! 貴様らには頼まんっ!!」
わけがわからず、すっかり気分を害した警部は、ワトソンからマントを引ったくり、立ち去ろうとした。
「まあ、待って下さい。今、説明しますから。アンニャロは死んでませんよ」
「なにっ!」
警部は驚き、行きかけていたのに戻って来て、
「それはどーゆーことだ!?」と、ホームズの胸ぐらをつかんだ。
賢明な読者諸君は、きっともう、お気付きのことだろうと思うが、このマントは、ホームズにとってはいわく付のマントである。
「モリアーティ教授の秘密」事件を思い出していただきたい。
「警部は、このマントを見て、アンニャロが殺されたと思ったんですか? だとしたら貴方の目はとんだ節穴ですね」
警部の手を振り払いながら、いけしゃーしゃーと失礼なことを言うホームズ。
「なんだと! 失敬な。ここを見てみろ。血痕がついとる。左の肩甲骨だ。こんなところをぶち抜かれれば、どんなに不死身のアヤツでも、恐らく即死だろう……」
「ぶち抜かれればね」
「え?」
「裏返して見て下さい」
ホームズに言われるまま、警部はマントを裏返した。
「あ! あはははははははははははははははは……」
今度は警部が豪快に笑った。
「やっと気が付きましたね」
マントの外側には、あれほどはっきりと血液の染みが付いていたのに、内側の裏地には染みひとつなかった。
「弾がマントを貫通して心臓をぶち抜いたのなら、裏地にも染みが付いていないと変でしょう」
「……確かに、オレの目は節穴だった。アヤツが殺されたことで頭に血が上って……警察官にあるまじきことだ」
確かにホームズの言うとおりだと、警部は猿でも出来る反省をした。なにしろ、裏地には染みどころか、弾痕さえついていなかったのだから。
「その染みはペイント弾ですよ」と、ワトソンがしゃしゃり出て言った。
「シーッ!」
ホームズは、慌ててワトソンの口をふさぐ。
「じゃ、警部、僕らは急ぎますので。また、何かあったらお力になりますよ。さようなら」
ホームズたちは、まだ何か聞きたそうにしている警部を尻目に、そそくさとベンツを走らせて退散した。
「そうか……アヤツは生きとるんだ……ははははははは……」
「警部、この辺りには遺体はありません。もっと下流を捜しましょう」と、最初にマントを持って来た警官が、警部に報告した。
「ああ、それならもういいぞ」
「は?」
事情を何も知らない警官は、キツネにつままれたような顔をした。
「モリアーティは死んではおらん。捜索は中止だ。引き上げるぞ」
「で、ですが、警部……」
「やかましい! 後で説明してやる。とにかく引き上げだ。帰ったら、全員ゆっくり休むように言ってやれ。次こそはアヤツを引っ捕らえねばならんからな」
警部は、そう言ってパトカーに乗り込みながら、豪快に笑った。それは、心の底から、本当にうれしそうな笑い声だった。





Continued on the next case




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