「物忌」 土御門小路の安倍晴明が屋敷の門の上に、黒々とした美しい文字でそう書かれた札が貼り付けられている。 博雅はそれを見て軽い目眩を感じた。 「まったく……あいつは何を考えておるのか……宮仕えの自覚はあるのか?」 右手でこめかみのあたりを押さえながら、溜息まじりに独りごちる。 源朝臣博雅。 この物語の主人公、大陰陽師安倍晴明の唯一無二の親友である。 醍醐天皇の第一皇子兵部卿親王の子であり、従三位の殿上人でもある。 やんごとない血筋の生まれなれば、本来ならこんなところに舎人の一人も付けず徒歩で来るなぞあり得ないのだが、この漢にかぎってだけは、その常識は通用しない。 それが家臣一同悩みの種であった。 自覚がないのは一体誰であるのか。 家の者が聞いていたらそう愚痴の一つもこぼしたくなる、そんな漢である。 博雅は朽ちかけた門を開けて、ずかずかと庭へ入り込んだ。 何度も訪ね来た家である。 勝手はすっかり判っている。 挨拶をしたり、迎えのものを待ったり、そんな堅苦しい間柄ではない。 用があれば勝手に上がるし、いなければ帰る、それだけのことだ。 ぼうぼうと茂るがままにまかせて草木の生えた庭を通り抜け、入口まで辿り着くと、 「おるか。晴明」とだけ言い、さっさと沓を脱ぎ中に入る。 そのまま奥まで行き、濡れ縁のある部屋へ来ると、 「どこだ、晴明。おるのだろう。おらぬわけがないよなあ、物忌み中に」と呼びかけた。 と、不意に背後で声がした。 「厭味を言うなよ、博雅」 「うわっ! 吃驚させ……おおっ!!」 すぐ耳元で聞こえた声に驚いて振り返った博雅は、目の前の親友の姿を見て二度驚いた。 「な、なんだ。それは」 驚きに掠れた声で博雅は問うた。 博雅の様子にも顔色一つ変えず、むしろささやかな笑みさえ浮かべて立つその友、安倍晴明の身体には、白銀に艶めく大蛇が一匹巻き付いていたのだ。 「これが、見ゆるのか?」 「ああ、見える。……それは蛇か?」 「そうか……お前にはそう見えるのか」 「……では、蛇ではないのか?」 「正確にはな。これは蛟(みずち)だ」 「蛟……なら……鬼……なのか?」 「うむ……鬼であるとも言えるし、そうでないとも言える……」 「ややこしいのだな」 「ややこしくはない。何を以て鬼と呼ぶかによるのだ」 「……」 「常ならざるもの全てを鬼と呼ぶならこいつは鬼と言えようが、人に仇をなすものを鬼というなら鬼ではないとも言える。そういうことさ」 「……やっぱり何やらややこしい……つまり、こいつは害はないということなのか?」 「ああ、いたっておとなしいものさ」 「でも……身体に溶け込んでおるように……」 そう言って博雅はその巨大な蛇にふれようと指を伸ばした。と、 「シャーッ!!」 蛇は突然鎌首を上げて博雅を威嚇した。 「おおおっ!」 慌てて博雅は三歩ほど後ろへ跳びすさった。 晴明はその様子を紅い唇にあるかなしかの笑みを浮かべて眺めている。 「か、噛まぬと言うたではないか!?」 「ははは……害はないとは言うたが、噛まぬとは言わなかったぞ。いきなり触ろうとするからだ。お前だって見知らぬ者に突然触られたら厭であろう? こいつだってそうさ。触りたいなら断ってからにせよ」 「断る?」 「『蛟様、蛟様、御身に触り奉らん』と唱え三回まわって睥睨する」 「こ、こうか……蛟様、蛟様、御身に──」 言って博雅はくるくると三回まわってその場にひれ伏した。 晴明は両目を見開いてそれを見ていた。 「……まさか、ほんとにやるとは……」 その呟きを聞いて、床に額を付けていた博雅が飛び起きた。 「せ、晴明! おぬし、また俺をからかったなっ!!」 頭から湯気でも出そうな勢いで怒鳴る。 「臥せっていると聞いたから心配して来てやったというのに……これではいい面の皮だ。帰るっ」 博雅はくるりと踵を返すと、どすどすと音を立てて元来た方へ歩き出した。 それを晴明は、音もなく歩み寄り腕を掴んで引き留める。 「すまぬ。俺が悪かった。ちとやりすぎた。機嫌を直してくれ」 いつになく本気で詫びているふうの晴明に、博雅も些か大人げなかったかと気を取り直す。 「……わかった。そんなに言うなら許してやる。まだ見舞いも済んでおらぬしな」 「見舞い?」 「ああ、昨夜、宿直の折り、おぬしが長患いで寝込んでおると聞いたのだ。まさかお前がとは思ったが、そう言われてみれば、ここのところ姿を見ておらぬし、もしかしたらと思って来てみたのだ」 「そうか……それは心配をかけたな」 「もっとも、門の上の『物忌』を見れば、案ずるに及ばぬことはすぐにわかったがな。いつも思うが、まったく、お前はどういう神経をしておるのだ。陰陽師が物忌みなどと……人が見たら何と思うか……」 「ああ、あれか。案ずるな。あれはお前が来るとわかったから貼ったのだ。もう式にめくらせた。お前以外誰も見てはおらぬ」 「なっ……お前という奴は……」 「怒ったか?」 「怒りはせぬ。呆れておるだけだ」 そう言って博雅は小さく溜息をついた。そして、 「まあ、だが、元気そうで良かった」と笑う。 もうすっかり機嫌は直ったようだった。 しかし、晴明は僅かに顔を曇らせて、 「そのことなのだが……実は、なんともないというわけではないのだ」と打ち明けた。 「なに? どこか患っているのか?」 博雅は心底心配げに晴明の顔をのぞき込む。 「患ってはおらぬ。病ではないのだが……これが……な」 言って晴明は、その身体を緩く縛る大蛟の背を柔らかく撫でた。 「それが? 何か問題でもあるのか? 害はないと言うたではないか」 「害はないが、いつまでも巻いておくわけにもいかぬ」 「なんだ。わざと巻いておったわけではないのか」 「わざと蛇を身体に巻く者がおるか?」 「お前ならそういうこともあるのかと思った」 博雅のこの意見は仕方がないと言えよう。 安倍晴明という漢は、それほどに変わった人間なのだ。少なくとも博雅の前ではこれしきのことは序の口であった。もっと奇異なことをしていても、それが陰陽の法であると言われれば納得してしまうほどに。 「そうか……なら、物忌みもまんざら嘘ではなかったのだな」 「うむ、そうなのだ」 「祓えぬのか?」 「祓えぬこともないが、一人ではかなわぬ。力を貸してくれるか?」 「お、おう。俺で出来ることなら。何をすればよいのだ?」 「斬って欲しいのだ」 「切る?」 「ああ。暫し待て」 言って晴明は、几帳の後ろへ行き、太刀を一振り持って戻って来た。 「これは斬魄刀という。今生に縛られし魂魄を因果から切り離し呪の戒めを解くための太刀だ」 「……ということは、つまり……俺に、その蛟を斬れということなのだな……」 博雅は眉間に皺を寄せ、難しい顔で太刀を見つめたまま言う。 晴明は無言で頷いた。 博雅の表情がますます難しくなっていく。 「……斬るのか……この子を……」 「そうだ」 まるで感情のない声で晴明が肯定する。 「……何故だ……」 絞り出すような声で博雅は問うた。 答えを期待しての問いではなかった。 ひとりでに胸の奥から零れ出した言葉であった。 ひとつ溢れた言の葉は、残りの思いもみんな吐き出させようとする。 「……なにゆえ斬らねばならぬのだ?」 「……」 「人に仇はなさぬと言うたではないか」 「……」 「これではあまりにも哀れではないか」 「……」 「何か他に方法はないのか?」 「……」 「のう、晴明!」 最後の台詞はまるで嘆願するかのようであった。 だが晴明は静かに首を横に振った。 「博雅、斬ると言うても、殺すわけではないのだ」 幼子を諭すような優しい口調で晴明は語った。 「この蛟は、我らのように血肉のあるものではない。お前には今、蛇のように見えてはおるが、実際は形も色もなく、ただ『蛟』と呼ばれる力の集結したものにすぎぬのだ。だから、斬るということは、今結ばれたこの世、この場合はつまり俺なのだが、その縁を断ち切り自然に還してやる、そういうことなのだよ」 「……切るとその子はどうなるのだ?」 語る晴明を真摯な眼差しで見つめていた博雅が、ぽつりと問う。 「消ゆる」 「それは、死ぬということではないのか?」 「ちがう」 「しかし、滅するのであろう?」 「滅するのではない。消えるだけだ」 「どう違うのだ? 消ゆるということは、死ぬるということと同じではないか」 「同じではない。消ゆるということは、姿も形もなく聞くことも触れることも出来なくなるということだ。しかし感じることが出来ないだけでなくなってしまったわけではない。目には見えず耳にも届かずとも『力』は有り続けるのだ」 「……俺にはわからん。わからぬが──」 博雅は晴明から太刀を受け取った。 「それが正しいことなのならやろう」 薄い三日月が東の空から清かな光で庭を照らしている。 その中央に印を結んで座していた。 そこから三間(5.46メートル)ほど離れた場所に博雅は立っていた。鞘から抜いた件の霊刀を構え、唇を引き結んで晴明を凝視している。 そよそよと草木を撫でる風が体温を奪っていくが、博雅の額にはじっとりと汗がにじんでいた。 晴明は眼を閉じ低く真言を唱えている。 「オン・サンマヤ・サトバン、オン・サンマヤ・サトバン──」 普賢菩薩の真言である。 普賢菩薩とは釈迦如来の脇侍を務める菩薩で、辰、巳年生まれ者の守護といわれている。左の脇侍、文殊菩薩とともに知恵を司る仏神としても名高い。 「オン・サンマヤ・サトバン、オン・サンマヤ・サトバン──」 唱えるごとに身体に巻き付いた蛟が蠢く。 月光に照らされた鱗が妖しい輝きを見せる。 「オン・サンマヤ・サトバン、オン・サンマヤ・サトバン──」 蛟はくねくねと狂おしげに身をくねらせた。 蛟が蠢くたびに晴明の貌に僅かな苦悶の色が浮かぶ。 それは見ようによっては、深い快楽を感じているようにも映った。 するりするりと這いまわる蛟の肢体は、まるで晴明を嬲っているかのようであった。 「オン・サンマヤ・サトバン……オン・サンマヤ……サト……バ……ン……」 唱える声が途切れがちになっていく。 真言とともに吐き出される息は微かに震えているようでもある。 やがて蛟は、晴明の胴だけでなく、腕や指先までも絡め取った。 うねうねと蠢き這い嬲り、晴明の頸にまで巻き付いた。 それを見て博雅の背筋が凍り付いた。 ──本当は色も形もないものである。 そう教えられはしたが、今の状態はどう見ても、絞め殺されそうになっているようにしか見えぬ。 しかし晴明は臆する風もなく、むしろ蛟に身を委ねるかのごとく真言を詠し続けていた。 博雅は気が気ではなかった。 もしも晴明がこのまま括り殺されたら──。 おそらく哀れなどとは言っておられず、自分は迷わず蛟を斬り殺すであろう。 博雅はぎりりと太刀の柄を握りなおした。 大地を踏みしめる両足に力が入る。 何かあればいつでも飛び出せる。 「晴明……」 耳に微かに届いた自分を呼ぶ声に、晴明は片目を開けて博雅を盗み見た。 紅い唇の端が僅かに上がった。 だが、三間も離れた場所にいる博雅には、もちろんそれは見えてはいない。 晴明は再び眼を閉じ真言を唱え始めた。 「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク──」 先ほどまでとは全く違う、長い真言に変わっている。 博雅が今まで一度も聞いたことのない真言であった。 突然蛟が鎌首をもたげた。 そして身を仰け反らせるように月を仰ぎ見る。 双眸は爛々と紅く輝いて水精というより魔物にしか見えぬ姿であった。 ──斬るならば今だ。 しかし、 「動くな、博雅!」と晴明が叫んだ。 その刹那、蛟が頭から晴明の口に飛び込んだ。 何とかせねばならぬと思うのに、博雅の身体は、金縛りにでもかかったかのように硬直し、ぴくりとも動かすことが出来なかった。 長く巨大な蛟の体が、うぞうぞと晴明の中に潜り込んでゆく。 晴明の身体が、その苦痛に耐えられぬかのように弓なりに反った。 細い首が月光にさらされる。 蛟に口中を犯され、飲み込みきれぬ唾液が口の端から零れる。それは顎を伝って流れ落ち白い喉を汚した。 突き出た喉仏が上下に動き、蛟が胃の腑へ降りていくのがわかる。 博雅はその様子を、瞬くことも忘れ凝視していた。 恐怖のためか、心配のためか、あるいはまったく別の感情のためか、博雅の心の臓は早鐘を打つ。 その音は鼓膜を破るかと思うほど身の内から高く響き、博雅の頭をくらくらさせた。 苦しむ晴明をよそに、蛟は尚もその身を体内深く沈めていく。 晴明は己が肩を両手で抱き、身を折って苦しみをやり過ごす。 時折、その背がびくりびくりと痙攣する。 その度に、蛟が少しずつ、晴明の中へ吸い込まれていく。 再び晴明が身を反らせると、残った体はみな、晴明の中に消えてしまった。 全てが終わると晴明は、 「ああ……」と喘いでその場にくずおれるように膝をついた。 俯き地べたに片手をついて震える身体を支えていた。 苦しげに肩で息をしているのが見てとれる。 「晴明!!」 不意に体の自由を得た博雅は、太刀を捨て、慌てて晴明のそばに駆け寄った。 心の臓の早鐘はまだ治まらぬ。 だが、博雅は自分のことなど構わず、晴明を気遣った。 「……大丈夫か……」 「……あまり、大丈夫でもないな……」 荒い息の下掠れる声で晴明は応えた。 「く、苦しいのか?」 博雅はおろおろと訊ねる。 「いや……苦しゅうはない。ただ……」 「ただ?」 「……少しばかり、抑えがきかぬようだ……」 そう言った晴明の身体がぐらりと揺れる。 それを支えようと、博雅が晴明の細い肩に手をかけると、その身体は信じられぬほど熱かった。 「俺に触れるな、博雅」 強い口調でそう言われ、博雅はたじろいだ。 「──しかし……」 「たのむ……触れてくれるな、今は……」 博雅がかつて一度も聞いたことのない、弱く力のない声であった。 一瞬、泣いているのかと思い、顔を覗き込もうとしたが、ふいと反らして見せてはくれなかった。 「今、触れられると──」 顔を背けたまま晴明はくぐもった声で言う。 「俺は……お前を……喰らいとうなる……」 「えっ!?」 思いもかけぬ告白に、博雅は晴明が何を言っているのか理解出来なかった。 しかし、わけはわからぬが、太刀は置いてきて良かったと思った。 そうでなければ斬りかかっていたやもしれぬ。 博雅は晴明が好きだ。 晴明がいかなる妖物に変じようとも、絶対に斬りたくはなかった。 「……俺が怖ろしいか? 博雅」 博雅が黙っているので、脅えていると思ったのであろうか。晴明は哀しげな声でそう訊いた。 「怖ろしゅうはない」 だが博雅は、そんな晴明の心配をうち払うようにきっぱりと言い切った。 「この様な姿でもか……」 晴明は顔を上げ振り向き、博雅を真っ直ぐに見た。 「おおっ!?」 博雅は驚き、僅かに身を引いた。 晴明の双眸が、まるで先ほどの蛟のように紅く爛々と輝いていたのだ。 「やはり恐いか……」 晴明は淋しげに目を伏せ、再び顔を背けその眸を博雅から隠してしまった。 「俺は鬼になったやもしれぬ」 「──」 「先ほどからお前が喰らいとうてたまらぬ」 「晴明……」 博雅はどうしていいのかわからなかった。 呪のことなどいくら聞かされても欠片も理解出来ぬ博雅には、鬼を祓う方術などない。 しかし、目の前にいる友は、今、鬼と戦い苦しんでいるのだ。 「……ひろまさ……」 晴明は喘ぎ、ひゅうと喉を鳴らせた。 「晴明、晴明! しっかりせよ。お前は鬼などにはならぬ。お前は安倍晴明ではないか。俺の好きな晴明は鬼などにはならぬのだっ!!」 博雅は為す術もなく叫んだ。 俯く晴明の身体を背中からしっかりと抱き、 「神でも仏でも誰でもかまわぬ。この漢を助けてくれ。俺の大事な友を助けてくれっっ!!」と絶叫する。 熱かった晴明の身体から、急速に熱が去っていくのがわかった。 代わりに鼓動がその背から博雅の胸に伝わってくる。 その律動は博雅と同じく早かった。 晴明は身じろぎ、片手で博雅の肩を押しその腕から逃れた。 「晴明?」 呼びかけに晴明はゆっくり振り返った。 博雅に向き直った晴明の表情は、いつもの、あるかなきかの笑みを湛えた穏やかなそれに戻っていた。 ただ両眼だけは人のものではなかった。 「晴明……もう、大丈夫なのか?」 博雅はおそるおそる訊ねる。 晴明は無言でこくりと頷いた。 「でも、目が……金色……だぞ?」 晴明の瞳は、本来なら黒いはずの部分が金色に光り、虹彩は猫のように縦に細長くなっていた。 「恐いか?」 今度は笑って訊ねる。 「恐くないと言うたであろう!」 言って博雅はむくれたように唇を尖らせた。 「ははは……博雅は本当によい漢だな」 いつものようにそう言って、晴明は、今や中天高く昇った月を仰ぎ見た。 その姿を冴え冴えとした蒼い月の光が照らす。 それは博雅にはこの世のものとも思えぬほど神々しく映った。 「竹取の翁」の姫のようにこのまま天に帰ってしまってもおかしくはないほどであった。 「せ、晴明!」 呼ばぬと消えてしまうような気がして、博雅は切羽詰まった声を上げていた。 「なんだ?」 晴明は不思議そうな顔で博雅を見た。 博雅は自分のしたことが、バカバカしいやら恥ずかしいやらで、口ごもってしまう。 「い、いや……なんでも──」 俯きそう言って、はたと忘れていたことを思い出し問うた。 「そうだ、晴明。蛟は? あれはこれからどうするのだ?」 「どうもせぬよ」 晴明は涼しい顔でさらりと応えた。 「どうもせぬとは、どういうことだ?」 「もう終わったということさ」 「終わった? あれで? 俺は何もしておらぬぞ」 晴明は薄く笑って、 「してくれたさ。随分と助かったぞ、俺は」と言う。 博雅は先刻の激行を思い出し、耳まで真っ赤になった。 それを見て晴明はくすくすと忍び笑った。 「お、お前、また俺をからかっておるな」 博雅が眉を寄せて怒る。 「からかってなどおらぬよ」 「嘘だ」 「嘘ではない。お前はやはりよい漢だと、しみじみ思ったまでさ」 この殺し文句を言われると、博雅には返す言葉がなくなってしまう。 愚かだとは思うが、博雅は晴明にこう言われるのが嫌いではなかった。 ただ、あまり言われると、照れくさくて何やら面はゆい。 「良かったではないか。斬らずに済んで」 晴明は庭の土で汚れた膝を払いながら立ち上がりぽつりと言った。 「え?」 「斬りたくなかったのだろう?」 晴明は濡れ縁の方へ歩きながら問いかけた。 博雅もその後を追う。 質問の意味を考えて問いで応えた。 「──では、俺のために、お前は……」 「さてな……」 晴明は裸足の足を軽く払って縁へ上がる。 そして簀子の上に置かれたままになっていた円座に腰を下ろした。 「どうでもよいではないか、そんなことは」 「よくはない!」 博雅は自分も濡れ縁に上がり、もう一つの円座を引き寄せて晴明のすぐ横に憮然と座り込んだ。 それから身を乗り出して、 「おぬし、あんな目に遭って……危うく命を落としかけたのだぞ」と唾の飛びそうな勢いで言う。 「大袈裟だな。死にはせぬよ」 確かにそうであろう。 安倍晴明はただの人ではない。 鬼にはなりかけたが、死ぬる様子ではなかった。 陰陽博士、安倍晴明を殺すは、なまなかなことでないのは博雅自身が一番良く知っている。 それでも博雅は時折、晴明が心配で仕方がなくなることがあるのだ。 「お前は……自分を粗末にしすぎる……」 博雅は呟くようにそう言った。 「そんなことはない。俺だって我が身は可愛い。命は惜しいのだ」 「本当か?」 「ああ。だから、博雅。俺のことでそんなに自分を責めないでくれ」 「うむ。わかった……しかし……その目では、これから何かと困るであろう?」 未だに金色のままの晴明の目を覗き込み、博雅は心配げに訊ねた。 「ああ、これか……。蛟の精は思うたより強かった。これはちと予想外であったな」 「ずっとそのままなのか?」 「いや、そんなこともなかろうよ。今はまだ折り合いがついておらぬゆえ昂っておる。が──」 「平気なのか?」 博雅は先ほどの怖ろしい出来事が脳裏に浮かび、晴明の言葉に被せるように問うた。 「ああ。案ずるな。あのようなことはもう二度とない」 晴明は穏やかに笑って応えた。 「そうか。良かった……」 博雅は安堵して、ほうと一つ溜息をついた。 そして蒼い月に目をやって、 「よいか晴明。おぬしは鬼になどならぬからな。俺がいるかぎり、絶対に鬼になどさせぬぞ」と強い口調で言い切った。 晴明は両眼を見開いて博雅を見つめた。 視線を感じた博雅が振り向いて真っ直ぐ晴明を見つめ返す。 と、晴明はいたたまれぬように目を逸らし、 「……ばか……」と呟いた。 ほろほろと酒を呑んでいる。 晴明の屋敷の簀子の上であった。 先刻の出来事がまるで夢であったかのように、庭は静寂を取り戻し秋の風がさやさやと草木を揺らす。 唐単衣を纏った二人の女が、晴明と博雅の横に座して、二人の杯が空になると無言でそこに酒を満たす。 蜜虫。 蜜夜。 晴明が好んで使う式神である。 博雅は蜜虫の注いでくれた酒を呑み干すと、ことりと杯を簀子に置いて、裸足で庭に降り立った。 「美しい夜だなあ、晴明」 空を仰ぎ博雅は、感極まったようにそう言った。 「俺はまるで夢を見ていたような気がするよ」 こちらに背を向けたまま語る。 それを未だ金色に輝く瞳で晴明は、自分こそが夢見るように見つめている。 博雅は懐からいつも持ち歩いている龍笛、葉双を取り出して唇に当てた。 いつだったか鬼から貰った笛である。 静かにその笛に息を吹き込む。 葉双は魂を注ぎ込まれたかのごとく、細かくその身を震わせて音を奏で始めた。 美しい光る帯のような旋律であった。 その音色は秋の夜の大気に溶け緩やかに流れ、晴明の鼓膜を心地よく振動させる。 それは魂までも震わせ身も心も空に溶け出すような錯覚さえあたえた。 晴明は静かに眼を閉じ、葉双の囁きに身を委ねた。 音はやがて月光までもと混じり合い、柔らかく晴明を包み込んだ。 「ああ……」 我知らず晴明の唇から吐息が漏れる。 狂おしいまでに官能的な旋律であった。 この時が永遠に続けばよい。 そう思わせる音色であった。 不意に音が止んだ。 一曲奏し終えた博雅が、葉双を下ろし振り返った。 晴明は物足りなさそうな表情で博雅を見た。 と。 「あ、晴明!」 博雅が小さく叫ぶ。 「ん?」 晴明は何事かと小首を傾げた。 「おぬし……目が……」 「目?」 言われて晴明は、右手で自分の瞼を撫でた。 それから蜜夜に命じて鏡を持って来させる。 そこに映った目は── 「元に戻ったようだ……」 博雅は嬉しそうに晴明に駆け寄った。 「良かった。本当に良かった」 心の底から喜ぶ博雅を、愛し子でも見るように晴明は見つめ、 「しかし、驚いたな。十日は戻らぬであろうと思うていたのに……」と独りごちた。 「やはり、お前は凄いな、博雅」 「俺は何も……」 「陰陽師も手を焼いた蛟の気を易々と抑えてしまったではないか」 「俺が? 俺がやったのか?」 博雅は信じられぬと言うように晴明を見た。 「信じられん。わからぬ」 「わからぬから、お前は凄いのよ、博雅」 「ううむ……」 博雅は納得出来ぬのか低く唸った。が、すぐ気を取り直して 「まあ、とにかく、これで何もかも解決したのだな」と言った。 ところが晴明は、 「さあ、どうであろうな」と聞き捨てならぬことを言う。 「またなるのか?」 「こいつが昂ればあるいは……な」 「ええっ!?」 晴明は慌てふためく博雅を見やり、 「だが、そのときは、また、おぬしが鎮めてくれるのであろう?」と言って笑った。 博雅はまたもや晴明にからかわれたことに気付いてむくれる。 「……ばか……」 秋の風が月光とともに庭の中を吹き抜ける。 そこに美しい音色が溶け合う。 晴明はその旋律が身体の中を通り抜け全ての不浄を洗い流すに身を委せている。 博雅はいつ終わるともなく笛を吹き続けた。 |
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了 |