「ホームズ、今朝の新聞を読んだかい?」
ワトソンは、読んでいた新聞から目をあげて言った。
「もちろん。とっくにね」
日課になっている実験の手を休める事なく答えるホームズ。
「ふーん、そう……」
「何か言いたそうだね」
「君のことだから、どうせ何か考えがあるんだろう。別に言うことはないよ」
ワトソンが不機嫌なのは今朝の新聞に載っていた記事のせいだ。 新聞には、一昨日の夜、有名な富豪のウイルヘルム男爵の屋敷から、モリアーティ一味が最近売り出しの新進気鋭の画家の油絵、時価三千ポンド也を、盗んだことが記されていたのだ。
にもかかわらず、ホームズは愚にもつかない実験にうつつをぬかし、事件解決のために腰を上げようとしなかったからだ。
「別に、考えなんてないですよ。ただ、慌てなくても、そのうちレストレード警部が……」と、ホームズが言い終わらないうちに、玄関のドアがバタンと開く音がして
「ホームズさん!!」と、大きなダミ声が二階まで響いてきた。
「ほらね」
ホームズは、半ばうんざりしたような顔をして肩をすくめた。



場面は変わってモリアーティ教授のアジト。
盗み出した絵を換金する算段で三人とも大忙にしている。
今までの経験から、レストレード警部の検問は、たいしたトリックを使わなくとも楽勝で突破できる。問題なのはホームズだ。やつに感づかれる前に物騒なものはさっさと金に換えてしまうにかぎる。
モリアーティ一味は数限り無く失敗を繰り返しているが、伊達や酔狂ではない。いつもいつも、後一歩で邪魔されてしまうのは、いつまでもお宝を手元に置いているからだ。したがって今回は、過去のその教訓をいかして、盗み出したらすぐ換金できるようにあらかじめ美術品のブローカーを手配しておいたのだ。
しかるに、あれから二日経った現在になっても絵が手元にあるのは何故か。
「教授ー、馬車の後輪が外れましたー」
アジトから三百メートルも行かないうちに戻って来てトッドは言った。
「クソーッ! またか」と、教授はステッキでその辺に積んである木箱をたたき割って悔しがった。
そうなのである。あれから二日、モリアーティ一味は、アジトから半径三百メートル以上外に出られないのだ。
馬車を利用すれば今のように車輪が外れ、プテラノドンを使えばエンジンが爆発し、仕方がないので自転車でと思うとものの見事にパンクしてしまうのである。もちろんそれは、いずれの場合も、荷台に絵を積んでいるときに限ってである。
「こうなったら仕方がない。歩いてでも売りに行ってやるわい」と、モリアーティ教授は、よせばいいのに梱包した絵を抱えてズンズンと大股で歩いて外へ出た。
ところが、不思議なことに、今度は何のトラブルも起こる気配がない。三百メートルの結界をこえても何の事故にも遭わないばかりか、汽車や辻馬車に乗り継いでも一度も検問に引っ掛からなかったのだ。
『なんだよ、こんなことなら、初めっから歩いて来りゃよかった』と、思うころには、ブローカーとの連絡場所になっている画廊に着いていた。
画廊の受付のオヤジに暗号を伝えブローカーを呼び出してもらう。
ブローカーが来るまでの間、展示してある二束三文の絵を見て時間をつぶした。
教授は絵を見るのは嫌いではない。否、そんな消極的な言い方ではなく、もっと積極的に好きと言っていい。
殊に、ここにあるような、世間に認められない無名な画家の絵が好きだ。
何故なら、そういうものの中にこそ真の芸術が隠されているからだ。
と、いうのは、何かの本の受け売りだが、なかなかどうして正しい意見だと、教授は思っていた。
そして、そんな教授の目を引き付ける絵が一枚。
あどけない顔をした、妖精の絵だった。心なしかハドソン夫人に似ていなくもない。
「おい、オヤジ。この絵は誰の作だ?」
「さあねえ、ここにある絵はみんな、食えなくなった絵描きが置いてったもんばっかりだから、どれが誰の絵だか……」
「この絵を売ってくれないか?」と、教授。
どんなに気に入った絵があっても、今まで一度も身銭を切ってまで手に入れたことがない教授が、どういう訳かこの絵だけは買ってもいいから欲しくなったのだ。
「ええっ!? この絵を?」
「そうだ。いくらだ?」
オヤジはしばらく考えてから
「そうだねえ、二百ポンドだな」と、法外な値段を指定した。
「なんだとぉ! どうせタダ同然の値段で仕入れたくせに、欲をかくなよ」
「でも、あんた、この絵がどうしても欲しいんだろう?」と、オヤジは、勝ち誇ったようにニヤニヤ笑いながら言った。
「くそー、足元見おって……そんな大金払えるわけないだろうが!」
「そんなことないでしょう」と、オヤジは教授の抱えている巨大な包みに視線を向ける。
「その荷物は、この絵を買ってもお釣りが来る値打ちなんじゃないの?」
するどい。流石は画廊のオヤジだ。
そのとき、ブローカーが店の中に入って来た。
オヤジと教授の取引はそこで中断される。
ブローカーと教授は軽くあいさつをかわした。
教授は抱えていた包みをブローカーに渡す。受け取ったブローカーは早速封を切る。本物であることを確認するためだ。
「ん? モリアーティ教授、これはどういうことですかな?」 梱包を半分ほど破ったブローカーが妙な顔をしたのも無理はない。
包みの中から出て来たのは、かの数千ポンドの名画などではなく、サイズこそ同じだが、描かれているものは件の絵とは似ても似つかぬスマイリーの落書きだったのだから。
「天下のモリアーティ教授ともあろうお方が、まさか、こんなくだらない手で、ペテンにかけようというわけではないでしょうね」とブローカーは、厭味ったらしく言った。
「ち、違う。こ、これは、ちょっとした手違いだ! す、すまん。また、出直す!!」
そう言って教授は、恥ずかしさのあまり顔を伏せたまま、転がるように店を飛び出した。



「クソーッ! 誰だよ、あんなガラクタ梱包したのは! おかげで大恥かいたわ!!」と、教授は、紫色の顔を真っ赤にして怒りまくっている。湯気でも出そうな勢いだ。
「お、俺じゃないっスよ」と、慌てて否定するトッド。
「ええー!? アニキじゃないの? じゃ、誰? 教授?」
「バカモン! ワシなわけがないだろー!!」
「えー? じゃ、誰か知らない人がこっそりやったのかなあ?」
「知らない人って誰だよ?」と、トッド。
「それは、わからないよ。知らない人だもん」と、スマイリー。なるほどもっともだ。
「き、気味の悪いこと言うなィ。そんなことあるわけないだろが」
「でも、教授、こいつの言うことも一理ありますよ。だって、馬車やプテラノドンのことにしたって、あんなに何度も壊れるんだ、誰かが故意にやってるとしか……」
「だから、その誰かってなあ、誰なんだよ。そいつを見たことあるのか?」と、教授はヒステリックにたずねた。
「ありません」
「ないよ」と、トッドとスマイリーは同時に答えた。
「こわーい。誰も見たことない人が犯人だって……ユウレイだったりして……」
言葉とは裏腹に、どうやらスマイリーは面白がっているらしい。 「ば、馬鹿言うな! 幽霊なんかいるわけないだろ!」
教授は、さらにヒステリックに怒鳴った。どうやら、アメイジングなことは苦手らしい。教授は思わずブルブルと身震いをした。 「み、見ろー、お前がくだらんこと言うから、寒気がしてきたじゃないか」
真冬でもないのに、風邪をひいたみたいに背筋がゾクゾクするのだ。と、思っていたら、立眩みまでしてきた。そのせいで教授は、立っていられなくなった。
「あっ、教授!」
さっきまでピンピンしていたのに、突然倒れそうになった教授に、驚いたトッドは慌てて抱きとめる。
「だ、大丈夫ですか? エキサイトするからですよ……」
「……明るい……」
「え?」
意味不明なことを耳元で呟かれて、怪訝な表情をするトッド。 「やっぱり、人間の目って、こんなに周りが明るく見えるんだあ。すごい、感動だなあ」
「はあ〜?」
トッドから体を引きはがしながら、ますます、わけのわからないことを口走る教授。
「あ、僕は、今、君に触ってるんだ」と、言って、教授はギュッとトッドを抱き締め、
「ああ、あったか〜い。いいなあ、人肌のぬくもりって……」と、トッドの頬に、自分の頬をすりよせる。
「あ、触ってる触ってる。物に触るのなんて何十年振かなあ!!」
「ひいーっ、やめてぇー、気持ち悪いー」
トッドは、うれしそうにベタベタする教授から、悲鳴を上げて逃げ出すと、スマイリーの後ろに身を隠し、
「あ、あんた、誰だ! 教授じゃないだろ!?」と、叫ぶ。
「え? 何言ってんのアニキ。目悪くなったの? あれはどう見たって教授だよ」
「バカ! 教授があんなこっぱずかしいこと、するわけねーだろー」
「あ、そっか。……ええっ! じゃあ、誰? ま、まさか……」 「はい、その『まさか』です」と、にこにこしながら、教授、もとい、教授の姿をした誰かは言った。
「きゃー、いやー、こわーい!」
トッドとスマイリーは、我先にとドアの方へ走る。
「ああ、待って待って。逃げないで、話を聞いてください。取って食ったりしませんから」
『まさか』は、二人より先に、ドアの前へ回り込んで、二人を部屋から出さないようにした。
「は、話? 話ってなんだよ! 俺達ゃ幽霊に祟られるおぼえなんかねーぞ」と、トッドは、スマイリーと抱き合って震えながら怒鳴った。
「祟ったりはしませんよ。安心してください。ただ、貴方達を一流の怪盗と見込んでお願いがあるのです」
「一流の怪盗」と言うのは二人の自尊心をくすぐる呼び名だった。流石はモリアーティ教授の部下だけはあって、二人とも世辞には弱い。こう見込まれたからには、怖いながらも話を聞かない訳にはいかなかった。
「わかったよ。一応聞くだけは聞いてやるよ。だけど、その前に、あんたが何者か教えてくんないとな」
「ああ、それもそうですね。失礼しました」
「……なーんか、調子狂うなあ」
幽霊が妙に礼儀正しいのが教授の姿とミスマッチで馴染めないのだ。
幽霊の話は長かった。しかし、彼がもう死んでいる者とは信じられないほど、理路整然と懇切丁寧に語ってくれたので、少々おツムのネジがゆるんでいるかもしれないスマイリーにも充分理解することができた。
その話から、彼は地縛霊らしいことがわかった。それもかなり特殊な。
普通、地縛霊というのは、怨恨や愛憎などの想いの強く残った土地や建物のような、いわゆる「場所」に縛られるものなのだが、彼の場合は「場所」ではなく「物」に縛られている。
察しの良い方は既にお気づきだろう。そう、彼は、教授たちがさっさと売りとばしてしまいたい例の名画に縛られているのだ。
彼は、この絵に描かれている精霊のモデルになった男性で、もう、五十年以上も絵に縛られたまま世界各国の美術館や、コレクターの元を渡り歩いたそうである。
何故、そんなに長い間地縛霊をしているのか? 答えは一つしかない。成就できない想いがあるからだ。
そしてそれを叶えることができるのはモリアーティ教授とその一味しかいないと言うのだ。まったく、持ち上げるのが上手い幽霊だ。
「太鼓持ちみたいなおべんちゃらはいいよ。俺は教授とは違うからな。そんなことじゃ丸め込まれないぞ」
ほめられ慣れていないからか、トッドはひねくれたことを言った。
「そんな言い方したら、ユウレイの人がかわいそうだよ。」
「簡単に洗脳されやがって……」
「ありがとうございます。貴方はお優しいんですね」
「『おやさしい』だって、わーい、ほめられちゃった」
スマイリーは相変わらず単純で御し易い。
幽霊は、トッドよりもスマイリーの方が、色好い返事をくれそうだと思ったのか、スマイリーに向かって話し始めた。
「五十年と一口に言いますが、五十年と言えば半世紀。僕の死んだ年に生まれた赤ん坊が、後十年で還暦を迎える歳月です」
「うんうん、そうだね」と、スマイリーは親身に耳を傾ける。 無視されていると感じて、ますます機嫌を悪くしたトッドは、
「『還暦』なんて英国にはねーんだよ」と、意地の悪い突っ込みを入れる。
しかし、幽霊はそんな鋭い突っ込みも全く無視して、さらに説明を続けた。
「そんなに永く、この世に彷徨っているのは、とてもつらいのです。誰でもいいから早く僕を成仏させてほしい。そう思っていた時、モリアーティ教授が男爵のお屋敷に電気屋のふりをして僕の下見にいらっしゃったのです。その時、僕は運命を感じました。この方が、僕を永い永い苦しみから救い出してくれるかもしれない。この方について行こう。そう思いました」
「たいへんだったんだね……」
スマイリーは、幽霊にすっかり同情して、涙ぐんでいる。
「でもね、もう大丈夫だよ。教授が、きっと、助けてくれるから。で、ボクたちは何をしてあげればいいの?」
「はい、絵を一枚盗んでいただきたいのです」
「また絵か?」
トッドは、ふてくされそっぽを向いてはいたものの、話の内容は気になるので耳をダンボにして聞いていたのだ。
「ええ、どんな絵かは教授がご存じだと思います。ひょっとしたら、もう、盗み出す算段をして下さってるかも……」
「え? なんでだよ」と、訝しむトッド。
「これもとても運命的だと思います……彼女が、あんなところにいたなんて……こうして、教授の躰をお借りして、貴方達とお話をするまで、全然知らなかった……しかも、彼女を、教授も気に入って下さるなんて……」
幽霊はすっかり自分の世界に入り込んでいるらしい。だんだん説明が支離滅裂になって来た。
「何のことかさっぱりわかんねーけど、一つだけわかったことがあるぞ。結局のとこ、俺達は、あんたの手のひらの上で躍らされてるってことだ!」
貧乏暮らしが長いうえ、我儘勝手な主人に仕えているせいでか、考え方がすっかりヒネてしまっているトッドは、幽霊のあまりに激しい思い込みと、他力本願さに、とうとうキレてしまった。
「決めた! あんたには協力しない! 運命だか何だかしらねえが、俺達はべつにあんたに恩も義理もねーんだ。成仏しようが迷おうが知ったことか!! だいたい、教授に取り憑いて脅迫しようってのが気にいらねー。どうせ、断ったら、教授を憑り殺そうって気なんだろうが、そうはいかねーぜ!」と、トッドは、まるでモリアーティ教授そっくりに怒鳴り散らした。
「憑り殺すなんてとんでもない。そんな大それたこと……」と、両手を振って大仰に否定し、
「教授の躰をお借りしたのは、貴方達とお話しするためです。誰にも僕が見えないんですから仕方なかったのです……」と、しおらしく語った。それから、急に、もじもじしながら、
「でも、それ以外にも理由はあります……だって……教授の躰って、ぴったりハマって、とっても具合がいいんですもん(ハート)」と、頬をポッと桜色に染めて、拳を口元にあて某ママドルさながらに可愛らしく言った。すると、
「ブチッ!」と言う音が聞こえた。続いて、
「まぎらわしいことを言うなー! ホモかヤ○イと思われるだろーが! これはワシの体だ。勝手に使うな。出てけ出てけー!!」と言う怒鳴り声。
幽霊のC調ぶりと依頼心の強さに腹を立てていたのは、どうやらトッドだけではないらしい。教授は自分の体の自由を奪われていたのだから、トッド以上に怒りが高まっていたのだ。そこへきて、この不埒な発言では、爆発するのも当然だ。つまり、さっきの音は、教授の堪忍袋の緒が切れた音だったのだ。
霊体に憑依されると有能な霊能者でも、体の自由を取り戻すのは難しいというのに、教授は、自分の意思でステッキを振り回して地団太を踏んでいる。教授の怒りのエネルギーは幽霊よりも恐ろしいということか。
「ハアハアハア……」
幽霊に取り憑かれていたせいか、大暴れしたためか、肩で息をする教授。
「きょ、教授……モリアーティ教授ですよね……」と、恐る恐るトッドは声をかけた。
「ワシじゃなきゃ誰だってんだ! これはワシの体だ!」
ステッキにすがって体重を預けたまま、顔だけを上げ、キッとトッドを睨む。
「……よかったー! 教授ー」と、言って、トッドはギュッと教授を抱き締め、
「心配したんですよ。でも、元に戻ってよかったぁ」と、教授の頬に自分の頬をすりよせる。
「こ、こら、やめろ、やめんか、気色悪い……」
教授は、うれしそうにベタベタするトッドを突き離し、
「な、なんだか、淫しい展開になってきたなー」と、独りごちた。



教授は、さっきまでまるっきり別の人格だったのが嘘のように正気に戻っていた。意識もはっきりしているらしい。どうやらもう体の中に幽霊はいないようだ。きっと教授の迫力に気圧されてしまったのだろう。しかし、まだ油断はできない。名画がここにある限り目には見えないが、アジトのどこかに幽霊はいるのだ。再び教授に取り憑かないとも限らない。
トッドは、そのことを心配したのか、部屋の隅においてあった名画を抱きかかえ、
「お肉食べたかったけど、この絵はもう処分しましょう」と、言った。
「ええーっ、せっかく苦労して盗み出したのにぃ、もったいないよぉ」と、スマイリー。
「バカ! 絵と教授とどっちが大事なんだ!」
「えーっとぉ……」と、スマイリーは、たっぷり一分は考え込んでから、
「おなかすいてるし……絵……」と、言いかけて、
『ゴキッ!』っと、教授にステッキの柄で殴られ、
「あ、ウソウソ、教授、教授が一番ですー」と、無理やり訂正させられた。まあ、自業自得と言えよう。
「とにかく、この絵は捨てちゃいますからね。いいですね、教授」と、トッドはいつになく強気で断言した。
「捨てられるもんならな……」と、教授。人が心配して言っているのに、なんて言い草だ。
「どういう意味ですか?」と、少しムッとしたようにトッドはたずねる。
「売っちゃうこともできないのに、捨てたりできないんじゃない? 捨てても勝手に戻って来たりして……」
スマイリーは時々賢いことを言うので侮れない。
「犬や猫じゃあるまいし、絵がひとりでに歩いて戻ってくるわきゃないだろうが、たぶん、スマイリーの言うとおりだろうな」 「じゃ、じゃあ、どうするんですか? あ、そうだ、それじゃ、燃やしちゃいましょう。俺って頭いい! そうしましょう!」
「バカモン! そんなことしたら、あの幽霊のことだ、今度こそ本気で祟られてアジトは丸焼けだわい」
「それじゃ、どうしようもないってことですか?」と、トッドは悔しそうにうなだれた。
「そういうことだ。悔しいが幽霊の言うとおりにするしかない。だが、ものは考えようだ。上手くすればお宝が二倍に増えるんだからな」
「あっ、そーかあ、教授って頭いい!」
最初から幽霊に協力的なスマイリーは、そう、教授をおだてる。これから盗もうとしている絵が二束三文とも知らずに。



田舎町の小さな画廊に忍び込むのは至って簡単だった。
こんな警備の手薄な所からものを盗むことなど、本来ならば教授の仕事ではない。
だが、今回ばかりは、教授の命がかかっているのだから、選好みはできない。
「こんなことするなんて、なんかムカつきますけど、楽勝っスね。さっさとお宝いただいてズラかりましょう。あんな得体の知れない奴とは早くおサラバしたいですもんね」
トッドは、よほどあの幽霊が気に入らないと見えて、そう、悪態をついた。
だが、実を言うと、当の取り憑かれた本人の教授は、幽霊と利害が一致しているせいか、生来の無神経のためか、今はトッドほど幽霊に対して悪意は抱いていない。と、いうことは、幽霊を嫌っているのはどうやらトッドだけのようだ。
トッドの言うとおり、三人は今回の仕事は、赤子の手をひねるよりも簡単だと思っていた。
ところが、いざ、展示室に来てみると、
「ない! 絵がないぞ!?」
他の絵は昼間教授が来た時と同じ場所に同じように飾ってあるのに、教授のお気に入りの二百ポンドの絵だけが、どこへ片付けられたのか、額縁ごとなくなっていたのだ。
「クソーッ! オヤジの奴、ワシが来ることをカンづきおったな……」と、教授は昼間の軽率さを後悔した。
その教授の肩を誰かが後ろからポンと叩いて、
「もしもし、教授、貴方の欲しいのは、これってものじゃないですか?」と、例の絵を見せた。
「そう、それだ! 良くやったぞ、トッ……ホームズ!?」
なんと、どこからいつのまに現れたのか、教授の背後に立っていたのは、我らが名探偵シャーロック・ホームズだった。
では、後ろに控えていたはずのトッドはどうしたのだろう。そう思い、教授が辺りを見回すと、入り口の近くの支柱に縛り付けられているのが目に入った。その横には、名探偵の有能なる助手、ジョン・H・ワトソン博士がニンマリ顔で立っている。
「貴様、何故、ここに?」とは言ってみたものの、教授には、オヤジが知らせたのだろうということは、察しがついていた。
「モリアーティ、残念だが君はもう袋のネズミです。観念して盗んだ名画を返して下さい。返してくれないと、この絵を切り裂いちゃおうかな、グサッと」と、ホームズは、懐からナイフを取り出して絵に突き付けた。
「わあ、やめろー! その絵を傷物にしたら俺が許さーん!!」と、叫んだのはトッド。
「良い子分をお持ちですねえ。彼のためにも、名画を返して下さいな」
「こんなところに持って来とるわけがないだろう」と、教授は吐き捨てるように言ったが、それは嘘だった。こういうことが起きる可能性も考えて、盗んだ絵を幽霊に早く見せるため、名画を連れて来ている。スマイリーが今ここにいないのは、外で名画を見張りながら、二人が戻って来るのを待っているからだ。
「ウソ、ウソよ……。彼は近くにいるわ。だって、こんなに彼を感じるんですもの。早く彼に逢わせて! もう五十年も待っているのよ!!」
突然、ホームズが、瞳に星をキラキラさせて、そう叫んだ。トッドと教授は全身に鳥肌が立つ思いがした。
「怖がらないでくれ。ここのオヤジさんにその絵を見せてもらってから、時々こうなるんだ。だから、気持ち悪いと思ったら、早く名画を返してくれんかね」
ワトソンが、肩をすくめ嘆息まじりに、名探偵の奇行の理由を説明してくれた。
「なんてこった……描いてある美女が幽霊の恋人だったんだろうとは思っとったが……どうせ取り憑くなら、ハドソン夫人に憑いて欲しかった……」と、教授は、ガックリと肩を落として嘆いた。今後の展開が、なんとなく漠然と読めてきたからだ。
「教授、スマイリーに絵を持って来させましょう」と、トッド。 「バカモン! そんなことをしたら……」
教授が言い終わらないうちに、
「スマイリーさーん、ここに、あの男性(ひと)、いいえ、名画を持って来てちょうだい」と、ホームズ、もとい、ホームズに取り憑いた女幽霊が、窓からスマイリーを呼んだ。
しばらくして、
「ヘンなオカマさんみたいな人の声がしたんだけど、何かあったの?」と、名画を抱えてスマイリーがやって来た。途端、
「あなた!!」と、幽霊憑きホームズは、名画に駆け寄り頬擦りをした。すると、
「君、僕はここだよ」と、またもや幽霊に取り憑かれた教授が、両腕を広げて恋人が胸に飛び込んで来るのを待つ。
「逢いたかった」
幽霊憑きホームズと取り憑かれ教授は、しっかりと抱きしめ合い、お互いの愛を確かめ合った。
あっけにとられ、ただ、呆然とそれを見つめる三人。
いつまでもイチャイチャしている二人に、たまりかねたワトソンは、
「あー、エヘン。愛し合う恋人同士というのは、実にほほえましいんだがね、そろそろ、ホームズの体を返してくれんかね」と、促した。
「お返しする前に、お願いがあります」と、男幽霊。
「お願い?」
「はい。私達が昇天しても、私と彼の絵をバラバラに飾らないで欲しいんです」と、女幽霊。
「僕達は、二人で一人、二枚で一作品の連作なんです。彼女は、僕を描いて下さった画家の先生がまだ無名だった頃モデルをしたものだから、離れ離れになってしまいました」
「でも、貴方達のおかげで、こうしてめぐり逢うことができました。感謝しています」
幽霊二人は、深々と頭を下げた。そして、再び見つめ合い、強く強く抱き合った。
そこへ、レストレード警部と警官隊が踏み込んで来た。
「やや、ホームズさん、モリアーティ、一体、何を……」と、警部は、傍目に見ると異常な二人に驚愕する。
「スマイリー君、警部を殴れ!」
こんな奇行が噂になると困るワトソンは、そう言いながら、トッドの縄をほどく。
言われるままスマイリーは、抱えていた名画の角で警部の後頭部を殴った。
その時、抱きしめ合った恋人達の体が、まばゆいばかりに光り輝き、同時にホームズと教授の体から、淡いピンクとブルーの人影のようなものが抜け出し、天井の方へ昇りながら、だんだん絵とそっくりの姿になり、熱い抱擁をかわし、長い長い口づけをした。そして、やがて、影は少しずつ薄くなり、とうとう完全に見えなくなった。
その情景はとても感動的で、見るものの心を熱くした。
しかし、トッドとスマイリーには感動の余韻に浸っている暇はない。
幽霊が離れても、まだ放心状態でいる教授を引きずって、ほうほうの態で逃げ出した。



教授が正気に戻ったのは、アジトにたどり着いてから。その教授が、開口一番に、
「オエーッ! 気持ち悪い!!」と、言ったのは言うまでもない。

これら一連のことが起こっている間、気を失っていたレストレード警部は、幸いなことに、名探偵と怪盗の奇態を悪夢だったと思ってくれているようだ。


最後に、例の名画は、慌てて逃げたモリアーティ一味が、画廊に忘れて行ってくれたので、幽霊の恋人達の希望どおり、国立美術館に二つ並べて展示されている。
ロンドンに来ることがあったら、是非、国立美術館に立ち寄ってみるといい。現在でも、五十年の歳月を越えめぐり逢ったロマンティックな恋人達が、永遠の愛を紡ぎ合っているのに出逢えるはずだ。





※この物語はフィクションであり、実在の人物や事象、ミュージアム等とは、全く関係ありません。


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