その日は朝から俺は憂鬱だった。
三週間ぶりに逢った室井さんと、昨夜大喧嘩をしてしまったのだ。
それもとても不可解な喧嘩だ。俺が悪かったんだろうとは漠然と思うけれど、それがなんなのか皆目見当がつかないのだ。
電話して昨夜のことを謝ろうかと思ったが、何が悪いのかわからないままじゃ、それもできない。
幸いというか不幸というか、朝から事件らしい事件は何も起きなくて、机にかじりついたままなので、変にイライラしてタバコの本数だけがやたら増えていく。
新しいアメリカンスピリットの封を切ったところで、見かねた和久さんが俺に声をかけてきた。
「おい、青島。吸いすぎだ。もうやめとけ」
自分でも自覚があったので、俺は素直にそれをポケットに引っ込めた。
「どうしたってぇんだよ、らしくもねえ。お前、また、コレと何かあったのか?」
和久さんは眉間に人差し指を当てて難しい顔をしながら、そう訊ねる。
「また」って何だよ。そんなに何回ももめてないよ、俺達。
「何なら俺に話してみろよ、相談に乗るぜ」
「……いやですよ。どうせ、お説教するんでしょ」
「なんだ、お前、後ろ暗いことでもあるのか?」
「そうじゃないっスけど……」
「だったら言えよ。年寄りの助言てなぁ、案外役に立つもんだぜ」
年寄りか……。
「オヤジ」って言ったのが気に入らなかったんだよな、確か。
あの人も、和久さんくらい素直に現実を受け止めてくれりゃいいのに。
「……話せば長くなりますよ。俺にもわけわかんないこと多いし……」
「どうせ暇なんだ、いいから話せよ」
暇だからってとこが、退屈しのぎの肴にされたようで引っかからないこともなかったけど、このまま悶々としているのもいやだった。和久さんの言うとおり、こんなのは俺じゃない。それに誰かに話せば少しはすっきりするかもしれない。
俺は昨夜のことを順に思い返しながら、できるだけ正確に和久さんに説明した。





昨夜、室井さんと二人で観ていたテレビで、石原裕次郎の特番をやっていた。
それは在りし日の裕次郎を偲ぶ番組で、俺の知らない裕ちゃんの映画の紹介をしていた。
室井さんは俺に付き合って、ただ、ぼんやりとブラウン管を眺めているだけのようだったけれど、俺の方はかなり真剣だった。
あんまり自慢できることじゃないけど、俺はバリバリの裕ちゃんファンだ。俺くらいの年で裕次郎フリークだなんて、ちょっと恥ずかしいから、このことは室井さんにも話していない。
でも、今日、バレちゃったんじゃないだろうか。だって、この番組ビデオ録画してるんだもんな。ま、隠すほどのことじゃないし、この機会にカミングアウトしちゃってもいいか。
「……裕次郎ってカッコイイですよね……」
俺は、社交辞令でも良いから同意を得たくて、やや控えめに訊ねてみた。
ところが室井さんは、チラッと俺を見ただけで返事もせず、またブラウン管に目を向けてしまった。
あれ? なんで?
もしかして室井さん、裕次郎のこと嫌い?
そういう反応を返されると、ファンとしちゃ、黙っていられない。
「石原裕次郎ですよ。『太陽にほえろ』ですよっ。男のロマンじゃないですかぁ。カッコイイと思わないんですか!?」
後にして思うと、これが子供じみていてバカな行動だったのだとはわかるけど、その時の俺は、負けたゲームに腹を立て外野席からスタンドにラジカセを投げ込む阪神ファンのように、ムキになっていた。
だってさ、『太陽にほえろ』には俺、人生変えられたんだから。
立ち上がり拳を握りしめて力説する俺を、室井さんは半ば呆れた顔で黙って見つめていた。
それからボソッと小さい声で、聞き捨てならないことを言った。
「……加山雄三の方がカッコイイ」
なにぃ〜! なんだとぉ〜!!
なんでそこで若大将なんだよっっ!?
「……室井さん、オヤジ臭い」
俺は、憧れの英雄、石原裕次郎様と、毛深いだけのただのオッサン、加山雄三を同列に比べられたことに腹が立って、つい本音を口走っていた。
すると室井さんは、今まで冷静な顔をしていたのに、急にムッとした表情になって、テーブルの上のリモコンを取ると、いきなりブチッとテレビのスイッチを切ってしまった。
「あーっ! 何するんスかっ!?」
俺は慌ててリモコンを取り返そうとした。けれど、室井さんはそれを遠くへ放り投げてしまう。
なんてことすんだよ、この人は。今観てる最中なのに。
投げ捨てられたリモコンを拾って戻ってきて、テレビに向けてボタンを押したが、どういうわけか映らない。
あれ?
あーっ! 主電源が……。
もー、なんだよ。そこまでするか? 普通。
俺がテレビのそばまで行って、画面を復活させていると、後ろで室井さんの立ち上がる気配がした。
もしかして、帰っちゃう気か?
心配になった俺が恐る恐る振り返ると、室井さんは俺などには目もくれず、ずんずんこっちへ歩いてきて、俺を通り越し部屋の隅まで行くと、あろうことかコンセントを引っこ抜いてしまったのだ。
「わーっっっ!!」
俺は室井さんを押し退けて、コンセントを引ったくった。
「良かった……。テレビのだけだ……」
ビデオの線まで抜かれていたら、俺は暴れていたかもしれない。
ホッとした俺が、室井さんを突き飛ばしてしまったことを思い出して振り向くと、室井さんは、テレビの前にしゃがみ込んでビデオデッキを凝視していた。
室井さんの指が停止ボタンに伸ばされる。
げっ! やばい。
室井さん、それだけはやめてぇ〜!
俺は室井さんを羽交い締めにしたが、時既に遅く、カチッという軽い音が聞こえる。


「あああああああああああ〜」


裕ちゃぁ〜ん……。
俺は思わず身も世もないような情けない声を上げていた。
もしかしたらちょっと泣いてたかもしれない。
いくらなんでもあまりの仕打ちに、悔しくて悲しくてわざとらしく鼻をすすりながら目を上げると、液晶表示カウンターの数字が増えていくのが見えた。
あれ? 止まってない。
ああ、そっか。タイマー録画の時は電源落とさないと止まらないようにできてるんだった。
ビデオの神様ありがとう。
「良かったぁ〜」
俺が心底安心してそう呟くと、腕の中の室井さんが、
「チッ」と舌を鳴らすのが聞こえた。
その声に俺はムラムラと怒りが甦ってきた。
「酷いよ、室井さん。なんでこんなことすんの?」
恨みがましくそう言うと、室井さんは俺の腕を振り払って睨みつけ、
「裕次郎がなんだ、バカバカしい。こんなもんにムキになるな」と嘲るように鼻を鳴らした。
何言ってんのよ、ムキになってるのはどっちよ? ビデオ止めようとまでしたくせに。だいたい、なんでそこまで怒るんだよ。俺は「裕次郎ってカッコイイ」って言っただけじゃん。そりゃちょっと、勢い余って熱く語っちゃったけどさ……。
……あ……。
そうか……。そういうことか……。
なあんだ。
もう、室井さんたら、可愛いんだから……。
そりゃ、俺は、けっこうハンパじゃなく裕次郎オタクだけど、裕次郎は芸能人じゃん。しかももう死んでるし。俺からしてみりゃ、架空の人物と同じだよ。好きっつったって、そんなん、モデルガンが好きとか映画が好きとか、そういうのと一緒だよ。
室井さんの可愛いやきもちに嬉しくなった俺は、愛しさのあまり室井さんをぎゅうっと抱きしめ……あれ?
計算では腕の中にいるはずの室井さんが、目の前に立って冷たい視線で俺を見下ろしている。
「む……室井さん?」
まだ、怒ってるんだろうか?
そうか、俺まだ、謝ってなかったっけ。
「ごめ……」
「若者とは話が合わないから帰る」
詫びようとした俺の言葉を遮って室井さんは、事務的に、だけど「若者」ってとこだけやけに強調してそう告げると、ハンガーに掛けてあったジャケットに袖を通し始めた。
はい?
何言ってんの?
室井さんだって若いじゃない。
俺はわけがわからなかった。わからなかったけど、このままにしておいて良いわけがないことだけは理解できた。
この人がこういう態度に出た時は、俺と違って絶対にポーズなんかじゃない。帰るって言ったら本当に帰ってしまうし、悪くすれば、こっちが謝るまで口も聞いてくれないって可能性もある。
他の人といる時はどうだか知らないけど、俺の前だとこの人は子供みたいに意固地で頑固だ。この人のこういうところを知っている人間は、そうはいないだろう。その数少ない人間に選ばれた栄誉は喜ぶべきなんだとは思うけれど……。
「待ってよ。謝るからさ、機嫌なおしてよ」
俺は室井さんの腕を掴んで引き留めた。
だけど室井さんはその手を振り払って、
「謝る? 何を?」と冷たく問い返した。
「え……何って……えっと……」
俺が口ごもっていると室井さんは、
「何が悪かったか判りもしないのに謝るな」と言って鞄に手を伸ばす。
室井さんの手が掴むより一瞬早く、俺はそれを取り上げて抱きかかえた。
「じゃ、説明してくださいよ。何怒ってんの?」
そうだよ。謝るとかなんとか言う前に、このまま帰られたんじゃ、俺だって寝覚めが悪い。理由を聞かなきゃ納得いかない。
俺はいたって真摯な気持ちで表情を引き締め、室井さんの返事を待った。
ところが室井さんは、今までキツイ顔で俺を睨んでいたくせに、突然決まりの悪そうな表情になって黙り込んでしまう。
「……」
眉間に皺が寄り唇が尖っていく。
言いにくいことを言わされる時の、照れくさい時のこの人のクセだ。
ああ。やっぱり。
俺が思ったとおりの理由なんだ。
それじゃ、言えるわけないよな。
石原裕次郎に嫉妬したなんて、負けず嫌いのこの人が口にできるわけがない。
なんだか微笑ましいな。
俺はその時、室井さんを抱きしめたい衝動に駆られていた。
だけどそんなコトしたらますます怒らせてしまうことがわかっていたから、涙を呑んでグッとこらえた。
俺は室井さんのために溢れる気持ちを我慢した仕返しに、ちょっとだけ意地悪く返事を促した。
「ねえ、早く言ってよ」
「はぁ……」
室井さんは大きな溜息を吐くと、意を決したように俺を見つめてぶっきらぼうに言った。
「オヤジ臭いって言った」
はあ〜?
俺は一気に脱力して、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
なんなの、それ?
いや、言ったよ。忘れてたけど、言ったような気はする。でもそれが何?そんなの売り言葉に買い言葉。本気なわけないでしょう。
そりゃ、多少、オヤジ入ってるなーって思うことはあるけど、そこも含めて俺はアンタのこと大好きなのよ。なのになんでそこで怒るかな。
「……気にしてたの? オヤジなこと」
思わず口走った俺の言葉に、室井さんは過敏に反応した。
「また言ったな!?」
あ、ヤベ……。
「あ、ご、ごめん……でもさ……」
「お前だって他人のこと言えないだろ」
言い訳しようとした俺に室井さんは言葉を被せてくる。
「石原裕次郎のファンだって、立派にオヤジだ」
ええっ!? そんなこと言う?
それを言われちゃあ、俺だって黙ってらんないよ。
「そりゃ、俺の年で裕次郎ファンって珍しいけど、加山雄三よりはマシだよ」
そうだよ、そうだとも!
石原裕次郎は偉大な俳優だけど、加山雄三なんか親の七光りなだけのただの暑苦しいオヤジじゃないか。
「加山雄三をバカにするな。彼はエレキの若大将だぞ。日本のロックスターの草分けなんだ」
あ、悔しい。ちょっと饒舌。無口な室井さんにこんな長台詞喋らせるなんて、加山め〜。
「へへんだ。何が若大将だよ。あの人一体いくつだよ? ヨボヨボのジジイになっても若大将? いやだねー。そんなの詐欺だよ、犯罪だねー」
「ジジイでも何でも生きてればいい」
室井さんは真面目な顔で俺を睨んで強く言い切った。
え……それって……死んじゃったから裕ちゃんが嫌いってこと?
「……あの……それじゃ……室井さん、松田優作とかも嫌い?」
おずおず訊く俺に、室井さんは間髪入れずにはっきり言った。


大嫌いだ


ああ、やっぱし。
ガーン!
俺、松田優作も大好きなんだよね。
何たってジーパン刑事だもん。
「……お前、松田優作もファンなのか?」
「……はい……大ファンです。俺、警官になったの、ジーパンに憧れてっスから……」
そうなのだ。俺はジーパン刑事の死に様に心底憧れていた。
強い男はかくあるべしと本気で信じて疑わなかった。
営業マンに嫌気がさし始めていた頃、ストレス解消に俺は近所のレンタル屋で「太陽にほえろ」を借りまくって毎日観ていた。
一番感動して不覚にも涙が止まらなかったのは、ジーパン刑事殉職の件だった。
その時俺は天の啓示を受けた気がしていた。
これだと思った。
俺が求めていたものがそこにあると思った。
次の日俺は上司に辞表を叩き付けていた。
その足で本屋へ向かい、どうすれば刑事になれるかの参考資料をしこたま買いあさった。
その年の春に俺は警察官採用試験に合格した。
そして二年後に念願叶ってめでたく、警視庁湾岸警察署刑事課強行犯係に配属になった。
そこで俺はこの人と出会ったんだ。
「太陽にほえろ」には人生を変えられた。
石原裕次郎のファンじゃなかったら、ビデオは借りなかっただろうし、松田優作があんなに演技派俳優じゃなかったら、刑事になろうなんて思いもつかなかった。そしたら俺は一生この人とは縁もゆかりもなく赤の他人として生きていったろう。恐らく何の夢も希望もロマンもなく、平凡なサラリーマンとして。
二人には感謝してもしたりないくらいだ。もう、俺にとっては神様みたいなもんだ。実際二人とも死んでしまっているから、少なくとも仏様ではあるわけだけど。
俺が過ぎ去りし日の感動に浸っていると、室井さんはさっきより大きな大きな溜息を吐いて、
「呆れ果てたヤツだ……。神聖な警官の職務をテレビドラマと混同するなんて……ここまで子供じみてるとは思わなかった。失望した」と独り言みたいに呟いた。
「失望」って言葉はかなりダメージのきついボディブローだった。だから俺は一生懸命、上手い言葉を探して言い繕った。
「あ、も、もちろん、それだけじゃないっスよ。他にもちゃんとした志望動機はありますよ……だけど、ジーパン刑事のラストはホント、カッコイイし……室井さんだって観たら感動しますよ。俺ダビングしたテープ持ってるから、今度一緒に観ましょうよ」
なのに、なんでだか、しどろもどろで、ちゃんと気持ちを伝えられなかった。
案の定室井さんは否定的な言葉を返す。
「……松田優作は嫌いだって言ったろ。それに、ジーパンくらい俺も知ってる。うんざりするほど何回も観た。感動なんてしない。あんな死に方する刑事はバカだ。だいたい、七曲署は殉職率が高すぎる。あんなに刑事死なせて、あそこの署長は無能だ」
室井さんはそれだけ一気に捲し立てると、俺から鞄をもぎ取って足早に玄関へ向かった。
なんか激しい誤解と行き違いがあるような気がして、為す術もなく呆然と立ちつくす俺に、室井さんは
「頭冷やせ。お前にはジーパンの真似なんかして欲しくない」と言い残し、ひときわ大きな音を立ててドアを閉めると、本当に帰ってしまった。
俺はもう引き留める気力もないほど混乱していた。
その夜はいろんなことが頭の中をグルグルして、けっきょく明け方までまんじりともできなかった。





「……アホか、お前」
話を聞いた和久さんの開口一番がそれだった。
はいはい、そうでしょうとも。
俺だって自覚ありますよ、バカバカしい喧嘩だって。
「日本人ならお前、『寅さん』だろう」
はい?
寅さん?
? ? ?
てっきり説教されるとばかり思っていた俺の頭ん中は、さっきまでよりも激しい疑問符の嵐だった。
「寅さんって……あの『男はつらいよ』の寅さん? 渥美清?」
「他に寅さんがいるなら、教えてくれ」
はあ……そりゃ、そうですね、ごもっとも。
でもなんでそこで寅さん?
「室井さんは裕ちゃんが嫌いなんじゃねえ、『太陽にほえろ』が気に入らねえんだよ。俺もありゃ、やりすぎだと思うぜ。いくらなんでもあんなにボコボコ殉職するんじゃ、観てる方もやりきれねえや。俺だってあの番組は大嫌えだ。ありゃ、一端の刑事が観るもんじゃねえ。七曲署は日本警察の面汚しだ」
そこまで言う? 俺の人生変えた偉大な刑事ドラマを。
だけど、言われてみればそれももっともな気がする。
確かに俺も、ちょっと死に方激しいなと思ったこともある。
「でも和久さん、それなら『こち亀』でも良いんじゃない? あれだって葛飾なわけだしさ。あれなら人は死なないですよ」
「こ……こち? 何? なんだよ、そりゃ? 年寄りにわけのわかんねえ、流行語使うなよ」
ありゃ? 知りませんか、「こち亀」。
ま、しょうがないか、漫画だもんな。
「とにかくだ。加山も良いけど、日本人なら『寅さん』だ。こいつを観ときゃあ、罪がねえ。だいたい、本物の刑事がドラマのド派手で嘘臭え刑事観たって始まらねえや。本物の刑事ってもんは地味なもんだ、それがホントの男のロマンってぇやつよ……なんてな」
そうか、それは、そうかもな。
ストレス解消に自分の生活に近いもの観たって意味がない。
殊に室井さんは俺達なんかよりずーーーっとストレス溜まってそうだしな。
「ありがとうございます。なんかスッキリしました」
「なあに、いいってことよ。俺もお前の恥ずかしい秘密が聞けたしな、おあいこだぜ」
「恥ずかしい秘密?」
「課長には内緒にしといてやるからよ」
「?」
「ジーパンに憧れてなんて、また、どっか飛ばされそうな理由だもんなあ」
しっ、しまったぁ!
パニクって俺、そんなことまで……。
それもよりにもよって和久さんに……。
こりゃ、当分こき使われるぞ。
一難去ってまた一難。俺は朝とは違う理由でタバコの本数が増えそうな予感に、目眩を禁じ得なかった。





その日のうちに俺は室井さんと連絡を取った。
昨夜のことは室井さんも気にしていたのか、思ったよりも素直に俺の誘いに応じてくれた。
「遅くなっても必ず行く」と約束してくれた。
俺は仕事帰りに行きつけのレンタル屋に寄って、和久さんオススメの「男はつらいよ」を数本借りて家路についた。
帰ったらすぐに、飯も食わずに残業するであろうと思われるあの人のために、和食中心の夕飯をこしらえ、その後であの人の大好きな二十四時間風呂の湯を新湯にはりなおした。
俺は柄にもなくドキドキしていた。
こんな気持ちは告白した時以来かもしれない。
室井さんの来訪が待ち遠しい。
喜んでくれるかな、「寅さん」。
俺もあんまり観たことないから楽しみだった。
これなら、よっぽど偏屈じゃないかぎり、嫌いってことはないだろうし、何より心が和む。
ああ……早く来ないかな、室井さん。
俺は用もないのに部屋の中をうろうろし、時計の針とにらめっこしながら、室井さんを待った。
十時少し前にやっと玄関の開く音がした。
室井さんだ! チャイムを鳴らさないのが、合い鍵を持っているあの人である何よりの証拠だ。
俺は脱兎のごとく玄関へ駈けていった。
「おかえりなさーい」
ウキウキと出迎える俺を、室井さんは目を見開いて見つめ、
「あ……た、ただいま……」と戸惑いがちに告げた。
「ご飯にします? お風呂にします? それとも……」
「風呂」
最後の選択肢はわざと遮って、室井さんは俺に鞄と背広を預けると、そのまま風呂場に直行した。





「新湯(さらゆ)だった……」
風呂から上がった室井さんは頭を拭きながらそう言った。
「バスタブも洗いましたよ、活性炭も濯いだし、気持ちよかったでしょ」
自慢げに俺がそう答えると、室井さんは申し訳なさそうに、
「もう怒ってないから、そんなに気を遣わなくても良かったのに」と言いテーブルの前に座った。
「……飯まで用意してくれたのか……」
「はい。食べちゃいました?」
「いや、まだだ。昼もいい加減だったから、ちょっと腹減ってる」
そうだと思った。
「じゃ、どんどん食べてください。今日、けっこう自信作なんスよ」
「……サービス良いな」
「そうスか? 普通ですよ」
「何だか気味が悪い……」
「またまたぁ、そゆこと言うから喧嘩になるんでしょ。今日は何の下心もありませんから、安心して召し上がってください」
「……なら、お言葉に甘えて……いただきます」
室井さんは彼らしく礼儀正しくそう言うと、ホウレン草のお浸しに箸を付けた。
「……美味い……」
「でしょ、でしょ」
「うん、腕上げたな」
やーん、誉めて誉めて、もっと誉めて。
俺、誉められて伸びるタイプなんだから。
「この鰯の丸干しも焼き加減が調度良い」
「味噌汁も飲んでみてよ。鰹で出汁とったんだよ」
自分が飲むだけなら出汁の素を使うけど、今日は一手間かけてみた。
「赤味噌だ……」
「室井さん、好きでしょ」
「……ホントに下心は何もないのか?」
「ぜんぜん!」
俺は力一杯言い切った。
まったく疑り深いんだから、この人は。
あれから俺は、海よりも深ーーく反省したんだ。
もしも俺に下心があるっていうなら、それは、アンタとちゃんと仲直りしたいってことだ。
喧嘩の原因はつまんないことだけど、いや、つまんないことだからこそ、このままうやむやになんかしたくない。
その気持ちはアンタだって同じなんだよね。だから今日、ここへ来てくれたんだよね。
俺がそう考えながら見つめる横で、室井さんは俺の手料理を美味そうに食べる。
前から感じていたことだけど、この人の食いっぷりは本当に気持ちが良い。
仕事中はコーヒー以外ほとんど何も口に入れている姿を見ないし、この年齢の人にしては痩せてもいるから、食が細いのかと思いがちだけど、それは大きな誤解だ。
働き盛りのこの人は、それ相応に食欲も旺盛だ。
今も鰯の丸干しを豪快に頭からかぶりついている。
飯だってちまちま箸で救ったりしない。一気にがばっと口に放り込む。
この人の口は、入り口はそんなに大きくないのに、中は頬袋があるんじゃないかと思うほど広いのだ。何でもいっぱい入る。
味噌汁にはあんまり箸を付けていないけれど、気に入らないからじゃないことはわかってる。むしろその逆だ。二杯目の飯に汁をぶっかける気でいるんだ。初めてそれをされた時には、外見とのギャップにびっくりしたけど、今はそれが男らしいと感じるから不思議だ。やっぱり、惚れた欲目ってやつだろうか。
案の定室井さんは、おかずも飯もきれいにたいらげた後、茶碗を差し出しておかわりを告げた。
「……何ニヤニヤしてるんだ? 気持ち悪いな」
「べーつーにぃー」
俺は照れくさくなって、冗談ぽくごまかしながら茶碗に飯を盛った。
茶碗を受け取る時室井さんは、急に神妙な顔になった。
「青島……昨夜は、あんなことになって……私も悪かったと……」
「ストップ! 先に謝らないで。俺の方が無神経だったんだから。それに、そういう話は飯食ってからにしましょう。お詫びに観せたいものもあるし」
俺は視線をテレビ台の横にあるツタヤの袋に向けながら言った。
室井さんもそれに気が付いたのか、
「観せたいもの? ビデオか?」と問う。ふと見ると、室井さんの表情がなんだか険しくなっていた。
「あれ? なんでそんな難しい顔するんですか?」
不思議に思って訊ねる俺に、室井さんは
「……『太陽にほえろ』だったら、観たくないから……な」と言いにくそうに答えてくれた。
そんな申し訳なさそうに……。
やっぱり昨夜のこと、室井さんも、いろいろ考えてくれたんだ。
そう思うと、胸の奥の辺りがなんだかジワッとあったかくなる感じがした。嬉しかった。
でも、それでも「観たくない」って言うのは、よっぽどのことなんだ。
どんなトラウマがあるのか、それほどまでに嫌うものを俺は押し付けようとしてしまったんだ。俺は甘えすぎてたのかもしれない、俺のわがままを何でも許してくれるこの人の懐の深さに。
やっぱり観せなきゃ。うん、絶対観てもらわなきゃ。これ観て癒してもらわなきゃ。それが反省した俺のせめてもの恩返しだ。
俺がずっと黙ったまま神妙にしていたので、誤解してしまったのか、
「……青島? まさか、それ『太陽に……」と室井さんに訊かれ、俺は、
「違うよ。ぜんぜん違うビデオです」と慌てて否定した。
「なら、何のビデオなんだ?」
いつの間にか、すっかり二膳目をたいらげた室井さんは、そう言って立ち上がり、ツタヤの袋を手に取った。
「たくさん入ってるな」
「ええ、まあ……」
「こんなには観れないぞ」
「……いっぱいあったから、どれが良いのかよくわかんなくて……。とりあえず、和久さんのオススメを一通り……」
「和久さんの?」
また、少し表情が険しくなった。
でも、それはほんの一瞬のことだった。
「あ、いや、全部観なくても……室井さんが選んでくれれば……」
「何言ってる。借りたら全部観るべきだろう」
ああ、そうだった。この人貧乏性なんだった。
「……判った。でも、今日全部は無理だ。明日も仕事だ。徹夜は避けたい。一日一本じゃ、ダメか?」
「えっ!! 毎日来てくれんの!?」
俺は予想外の答えに、ない尻尾を大盤振る舞いしたくなるほど嬉しくなった。
「しょうがないだろ。ビデオはここで観た方が画面がきれいだ、大きいし」


ひゃっほう! ビバ貧乏性!!


和久さんありがとう。もう、肩でも腰でもいくらでも揉みますよ、俺。
「で、何を借りたんだ」
室井さんはそう言いながら、袋の中身を探っている。
「へへへ……さあ何でしょう?」
俺はワクワクしながら室井さんの反応を待つ。
「……青島……これ……」
室井さんは中身を取り出して、タイトルをじっと見つめている。
「『寅さん』……」
あ、びっくりしてる。
ふふふふふ……。俺のセンスにまいっちゃったか?
つっても八割方、和久さんの功労だけど。
室井さんはビデオから俺に視線を移し、熱く見つめてきた。
や、やだなぁ……、そんなに見つめないでよ、照れるじゃない。
たっぷり五分は見つめられた後、俺は喜びの期待を大きく裏切られる言葉を聞いた。

馬鹿野郎! 
渥美清も死んでるじゃないか!!






ENDLESS





アンケートに答える

戻る

inserted by FC2 system