ここは、モリアーティ教授のアジト。
 トッドとスマイリーが、たまっていた汚れた食器を洗っている。
 これを片付けてしまわないことには、お茶を飲むカップも、夕食用の皿もないのだ。
 何とずぼらな生活態度だろう。「男やもめにウジが涌く」とは、まさにこのことだ。
 「はーっくしょん!」
 「風邪か、スマイリー」
 「うん、昨日からちょっと鼻がムズムズして……はーくしょん」
 「汚いなー、むこう向いてクシャミしろよ。感染るだろ」
 トッドはちょうど洗っている最中だったトレイで唾を避けた。
 「あ、ごめん。でもさ、なんか寒くない?」と、スマイリーは洗う手を休め、鼻をすすりながら言った。
 しかし、トッドは、
 「べつに。働いてるから暑いぐらいだよ」と、とりつく島もない。
 だが、それも無理からぬことだ。汚れ物は思いの外多くて、洗っても洗っても片付きそうにない。
 これでは夕食の準備が出来ないどころか、明日の朝食だってどうだかわからない。
 しばらくしてトッドは、食器を洗っているのは自分だけだと気が付いた。
 「オイ、さぼってないでお前もちゃんと洗えよ」と、今まで見向きもしなかったスマイリーの方を向く。
 ところが、やや、スマイリーの姿がどこにもない。
 「スマイリー?」
 トッドはキョロキョロとスマイリーを探した。
 「う……うーん」
 足元から声がする。トッドは反射的に足元を見た。
 と、なんと、スマイリーが床に仰向けに倒れているではないか。
 「スマイリー! どうしたんだ! しっかりしろー!」
 トッドは慌ててスマイリーを抱き起こした。
 「わあ! すごい熱だ」
 「アニキー、寒いよー」
 しゃべってはいるが、意識はない。うわ言のようである。
 「教授ー、教授ー!」
 トッドは、どうして良いかわからず、とにかくモリアーティ教授を呼んだ。
 ところが何も知らない教授は、
 「なんだよ、うるさいぞー。大声出さなくても聞こえるんだよ。折角、ホームズの奴の裏をかいてギャフンと言わせる、天才的なアイデアがまとまりかけてたのに……。炊事くらい静かにできんのか」と、たっぷり一分は経ってから、押っ取り刀でキッチンに入って来た。
 そして二人を見て、
  「何をしとるんだ」と、不思議そうにつぶやいた。
 まだ状況がわかっていないらしい。
  「スマイリーが、スマイリーがぁ……教授ぅー」
 トッドは取り乱して半泣きになっている。
 それを見てやっと教授は事の重大さに気が付いた。
 「バカモン、泣いてちゃわからんだろう。一体どうしたっていうんだよ」
 教授はスマイリーのそばにやってきて、自分とスマイリーの額に手を当てた。
 「はー、すごい熱だ」
 「教授ー、どうしましょう」
 「うろたえるな! とにかくベッドに運ぶぞ。ほら、足持て、足」
 二人でスマイリーを寝室に運んだ。
 「トッド、タオルと水枕だ。それと着替えを持って来い!」



 「教授、これからどうするんですか」
 とりあえず素人で出来る限りの手は打ったものの、このままで良いはずがない事は二人にもわかっている。
 「なんか、たち悪そうですよ、この風邪」
 スマイリーの熱は一向に下がる様子はなく、さっきからこれで五回目の替えの水枕をしてやりながら、
 「やっぱり医者に診せた方が良いんじゃないですか、教授」と、トッドはすすめた。
 「医者だと……我々は犯罪者だぞ。犯罪者には、給料も退職金も年金も、ましてや健康保険なんぞ一セントもないんだよ。医者に診せる金なんかないよ」
 今まで、一回でも勝ち名乗りを上げていれば、医者に診せることは雑作もないことだったろう。
 しかし、事実は黒星だらけ。
 そのうえ今度こそはと、難しい作戦を立てるものだから出費がかさみ、闇取引の同業者からも払が悪いことを見抜かれて、買い物がしづらくなっている。
 医者にかかる金など、このちらかりきった部屋をどう片付けても出てきそうにない。
 「それじゃ、スマイリーを見殺しにしろっておっしゃるんですか。ひどい、ひどすぎますよー。教授、なんとかしてやって下さい。医者を呼んで来てくださいよぉ!」
 トッドは教授の胸ぐらをつかんでわめいた。
 「オイ、よせ、よさんか。何も見捨てるとは言っとらんだろう。ただ、物理的に医者を連れてくるなんて……!……今なんて言った?」
 「は?」
 「そうだ、連れてくるのは不可能じゃないぞ。しかし、待てよ、この辺に医者なんていたか……」
 教授が何を思いついたのかは、不本意ながら長い付き合いのトッドにはすぐ理解出来た。
 「医者かぁ……そう言えば、いませんね、近所には」
 「いや、いる。いたような気がするんだよ。絶対いる。誰だったかなー、ここまで出てるんだがなー」
 「医者って言えば、ホームズの所の、あいつ、なんていいましたっけ、ホラ、あの髭のチビデブ……」
 「ワトソン博士のことか……」
 「「ワトソンだー!」」
 二人は同時に叫んだ。が、病人がいたことを思い出してあわてて互いの口をふさぐ。
 「「シーッ」」と、二人は同時に言い、悪役特有のニンマリ顔をした。



 ここは、ベーカー街221Bの名探偵シャーロック・ホームズの下宿。
 もう夜も遅い時間なので、ホームズもワトソンも、もちろんハドソン夫人も、床について、邸はすっかり寝静まっている。
 ところが、静かなはずの庭で、なにやら怪しげにガサガサっと樹の揺れる音がした。風だろうか? 否、人影が見える。一体誰だ?
 人影は足音を立てぬよう、ゆっくりと慎重に、ワトソンの部屋の真下までやって来て、壁に背中をつけた。
 雲が流れ月が姿をあらわし人影を照らした。今なら顔がはっきりと見える。
 白いマントとシルクハットを身にまとい、モノクルにドジョウ髭の縦に長い顔は、読者諸君もよもや見忘れたりはしないだろう。
 そう、悪の天才モリアーティ教授だ。
 教授は小石を投げてワトソンの部屋の窓にぶつけ、素早く樹の陰に身を隠した。
 一拍間をおいてワトソンの部屋の窓が開く。
 ワトソンは窓から頭を出して辺りを見回したが、誰もいないので窓を閉めた。
 窓が閉まると教授が再びあらわれ、小石を窓にぶつけて身を隠す。
 窓がまた開く。
 辺りを見回してまた閉じる。
 そんなことを二人は五回も繰り返した。
 ところでホームズはどうしたのだろう?
 隣の部屋と裏庭でこんなに怪しげなことが繰り返されているのに、眠っているのだろうか?
 そんな馬鹿な。彼は名探偵ではなかったのか。
 六回目の音を聞いたワトソンは、さすがに不信に思って、庭まで降りて来た。
 ワトソンが首をかしげながら、教授の隠れている樹のそばまでやって来た。
 教授はすかさず、クロロフォルムを染み込ませたハンカチで、背後からワトソンの鼻と口をふさいだ。
 もともと寝ぼけ眼のワトソンは、薬の効き目もすこぶるよく、あっと言う間に夢の世界へ。
 『これがホームズならこうはいくまい』と、段取りよく事が運んだことにほくそ笑む教授。
 熟睡しきっているワトソンを引きずって、裏木戸の外に止めてあったリアカーに乗せる。
 来る時は十分そこそこだった道程が、帰りはたっぷり一時間はかかった。
 いかなモリアーティ教授といえども、病人を一人でほったらかすほどと冷酷なことはしない。だから自分だけでここへ来たわけだが、荷物のあまりの重たさに、教授はトッドを連れて来なかったことをつくづく後悔した。



 「うーっ、臭い! 鼻が曲がりそうだ」
 ワトソンは、アンモニアのきつい刺激臭で目を覚まさせられた。
 「おはよう。ワトソン博士」
 「わーっ!」
 目の前の教授を見てワトソンは、寝かされていたソファの上に立ち上がり指をさして驚く。
 「ここは何処だ。一体何がどうした!」
 「やかましいお医者ですね、教授」
 「うむ、トッド、事情を説明して差し上げなさい」
 トッドは懇切丁寧に、こうなった経緯を説明した。
 「なるほど。事情はよくわかった。しかし、私が君たちの言うことを聞くと思っているのかね。無理やりこんな所へ連れて来て、非常識きわまりない」
 ワトソンは、これ以上はないというほど思いっきり無愛想な顔をして、ソファの上にあぐらをかいた。
 「ここは、ワシのアジトのなかだ。君は囚われの身だ。君を生かすも殺すも我々の手の中にあると言っていい。おとなしく言うことを聞いた方が、身のためだと思うがね」
 こういう台詞を言うときの教授は、悪役そのもの。悪役の中の悪役といった顔をしている。教授は悪党になるために生まれて来たのではないか、とさえ思ってしまうほど。
 「なんて奴だ、それが人にものを頼むときの態度か」
 「まだ立場がよくわかっていないようですな、ワトソン博士。トッド、博士を寝室にご案内しろ」
 「へい」
 トッドは、ワトソンの背にピストルを突き付けて、強引に寝室へ連れて行った。
 寝室のドアを開けると、スマイリーがベッドに寝かされていた。
 今は目を覚ましているらしいが、ひどく苦しそうだ。
 ワトソンはその姿を見ると、ためらわずにベッドのわきへ行き、スマイリーの額に手を当て熱を診た。
 その顔はもう、寝込みを襲われた中年男のものではなく、きりりとした名医のそれだった。
 「やっぱり熱が高いな。口を開けて……もっと大きく……ああ、扁桃腺が腫れてるなー。喉が痛いだろう」
 「はい」
 「咳はどうかね」
 「ときどき……」
 「うん、よし、胸を診よう」
 ワトソンは掛け布団をめくって、スマイリーのパジャマの前をはだける。
 それから自分の胸のポケットを探って、聴診器がないことに気が付いた。
 「あの……ボク、悪い病気なの?」
 ワトソンが一瞬渋い顔をしたのを、スマイリーは敏感に感じ取って、不安そうに尋ねた。
 「いやいや、ただの風邪だよ。何も心配しなくていい。暖かくして、何か栄養のつくものを食べさせてもらいなさい」と、ワトソンは、聴診器の代わりに触診をしながら、なだめるようにおだやかに言った。
 診察が終わるとワトソンは、寝室の外で待っていた教授とトッドのところへ来て聞いた。
 「ただの風邪だが、ずいぶんこじらせているよ。熱が高すぎる。いつからああなんだね?」
 「洗い物を始めたのが晩飯の前だから……七時頃……かな?」 「七時* 今、十二時だぞ! 君たちは五時間も患者をあんな寒い部屋にほったらかしにしておいたのかね* 信じられん。このままではもっと悪くなるぞ」
 二人はワトソンに叱られてシュンとなった。
 いつの間にかすっかり立場が逆転してしまっている。
 「きょ、教授、どうしましょう……」
 「悪くなる」と、脅されて、トッドはまた半ベソをかく。
 「先生ー、スマイリーを助けてやってください〜〜」と、トッドは情けない声を出し、ワトソンの襟首にすがって懇願した。
 「毛布をもっとたくさん持って来なさい」
 「はい!」
 教授の命令を聞くよりも素直にワトソンの指示に従い、教授の部屋へ毛布を取りに走る。
 「あんたは、ストーブを持って来なさい」
 「ワシが?」
 「当たり前だ。他に誰がいるんだね」
 ブツブツ文句を言いながらも、渋々ストーブを取りに行く。もう、しっかりワトソンにイニシアチブをとられてしまった。
 「毛布を持って来ました」と、トッドが戻って来た。
 「よろしい。患者に着せてやりなさい」
 続いて、
 「ストーブを持って来たぞ」と、仏頂面で教授が戻って来た。
 「部屋の真ん中に置いて、火をつけてやりなさい。それから、やかんに水を汲んでストーブの上にかけるんだ」
 教授は今度は素直に従った。
 「先生、これでスマイリーの病気は治るんですよね」
 トッドは、すがるような目でワトソンを見つめた。
 「うーん……やっぱりこれだけでは無理だよ」
 「ええー! そんなぁ……、冷たいこと言わないで治してくださいよぉ」
 「治療したいのは山々なんだがね……医療器具がなくては……。ひとこと言ってくれれば準備して来たんだ。取りに帰らせてくれんかね」
 「教授、帰らせてあげましょうよ」
 「帰ったら戻って来るはずなかろう」と、教授はにべもない。
 「患者を見捨てるわけがないだろう。私が信じられないなら見張りについて来てもいいよ。道具を取って来るだけだ」
 「いかん。夜中に二度も出入りなんかしたら、ホームズの奴が気付くに決まっとる。そんな危険をおかせるもんかい」
 「そんなこと言って、もしスマイリーが死んだら教授のせいですからね」
 トッドは、涙をボロボロ流しながら、恨みがましく教授をにらんだ。
 「バカモン! 風邪ぐらいで死ぬ理由ゃないんだよ」と、教授は言ってはみたものの、内心はトッドと同じく、スマイリーが心配で仕方ないらしい。その証拠に、目が泳いでいる。
 教授とトッドの動揺に追い打ちをかけるかのようにワトソンは、 「そんなことはない。風邪は万病の元だ。このままでは間違いなく肺炎になるよ。そうなったら、入院をしなければまず助からないだろうね」と、涼しい顔で言ってのける。
 「しかし……」
 トッドが、心配で気も狂わんばかりの顔をしているのに気付いて、
 「今ならまだ間に合う」と、ワトソン。
 トッドはほっと胸をなでおろす。
 「ただし、道具と薬さえあればね」
 「……勝手にしろ*」と、教授はプイと二人に背を向けた。
 「いいか、三十分だ。三十分で戻って来なければ、スマイリーを連れて貴様のうちに乗り込んでやる。不本意だが、ハドソンさんを人質にしてでも治療させてやるからな。忘れるな! トッド、そいつから絶対目を離すなよ」



 ホームズの下宿の玄関に二つの陰が忍び寄って来た。もちろん、言わずと知れたワトソンとトッドだ。
 二人はまるで盗みに入る前のように、壁に背中を付け辺りに細心の注意をはらい、足音を忍ばせてドアまで歩く。
 トッドはさておき、ワトソンのその姿が板についているのが滑稽だ。
 「君はここで待っていなさい。すぐ戻って来る」
 ワトソンは小声でささやいた。
 「オレもついて行きます」
 「私を信じてくれ。決して妙なことはしないよ」
 「オレは先生を信じてますよ。でも、教授の命令だから……」と、トッドは申し訳なさそうに言う。
 「仕方がない……二人で行くとホームズを起こしちまいそうなんだがなー」
 心配することはない。二人で行かなくても、もうホームズは起きていた。
 はじめに教授が来たときから目を覚ましていたのだ。
 隣の部屋の窓に何回も石がぶつかる音がしているのに、目を覚まさない方がどうかしている。
 ワトソンが教授に誘拐されたことにも気が付いていた。
 すぐ助けに行くことが出来ないことはなかったが、好奇心には勝てなかった。
 だからといって、ホームズが友情の薄い冷酷な男だとは思わないで欲しい。全くワトソンを心配していなかったわけではないのだから。
 ただ、犯人がモリアーティ教授だとわかっているから、命の危険はないと確信していただけだ。
 それに、一時間待って、教授から何の連絡もなければ、レストレード警部に知らせようとも思っていた。
 そして、『そろそろ警部を呼ぼうかな』と考えていたところへ二人が戻って来たのだ。
 ホームズはドアの隙間から、そっと二人の様子をのぞき見た。
 話の内容まではよく聞き取れなかったが、二人の間に険悪なムードはまるでないことはわかった。
 どうやらワトソンに危険は全然ないらしい。まずは安心だ。
 ホームズは二人が何をしに戻って来たのか、少し様子を見ることにした。
 しばらくすると、二人は忍び足で階段を昇って来た。
 ホームズは慌ててドアを閉め、ベッドに入って寝たふりをした。
 考えて見れば、何もコソコソする必要ない。ここはホームズの家だ。しかし、今は見つかってはまずい。教授が何をたくらんでいるのか突き止めなくては。
 ドアの閉まる音が聞こえる。二人はどうやらワトソンの部屋に用があるらしい。
 ホームズは、音がしないように自分の部屋のドアを開閉し、静かにワトソンの部屋のドアに近づき、鍵穴から中の様子をのぞいた。
 「先生、おカバンはこれですか」と、トッドはワトソンの診療カバンを持って来た。
 「そう、それだ。えーっと、薬は何処にしまったっけな……」と、キョロキョロと辺りを見回すワトソン。
 「この箱は何ですか」
 「ああ、それだ。君、探すの上手いねー」
 「ええ、なれてますから……」
 やがて、二人が必要な物を持ち、ドアの方へやって来たので、ホームズは再び自分の部屋に隠れた。
 「ホームズは起きてないだろうね」
 ワトソンが心配するので、トッドは鍵穴からホームズの部屋をのぞいた。
 「大丈夫です。よく眠ってるみたいですよ」
 タヌキ寝入りとも知らず、二人は安心して、来たときと同じように静に221Bを後にした。



 三十分という時間は短いようだが、待っているととても長く感じるものである。
 教授は二人が出掛けて行った後、スマイリーの様子を見に寝室へ入った。
 「スマイリー」
 返事がない。どうやら眠っているようだ。
 教授は起こさないように静かにベッドのそばへ来た。
 「うーん……ゲホゲホッ……さむい……教授ぅさむいよぉ」
 スマイリーはかなりうなされている。これは、眠っているというより、意識を失っていると言った方がいいかもしれない。
 「スマイリー、しっかりしろ。今、火を強くしてやるぞ」
 火力を上げると、狭い部屋はあっと言う間に、サウナのような灼熱地獄と化した。
 それでもスマイリーは、まだ寒がってうなされ続けていた。心なしか、さっきより顔色も悪くなっているような気がする。
 「ハァハァ……教授……教授……」
 「スマイリー! しっかりしろぉー、死ぬな、死ぬなよスマイリー。こんなことで死ぬんじゃないぞ。ワシがホームズに勝つまでは死んではならん。一緒に勝利の喜びを味わうんだよ」
 教授は、スマイリーの手をしっかり握って、祈るようにそう言った。
 「遅い! 薬はなにをしとるんだ*」
 二人が出掛けてから十五分しか経っていない。まだ戻って来るのは無理だろう。
 「スマイリー、もうすぐ薬が来るからな、それまで頑張るんだぞ」
 居ても立ってもいられない教授は、それからきっかり十五分して、二人が戻って来るまで、ずっとスマイリーのそばについていた。
 それは教授にとって、かつてないほど長い時間に感じられた。



 「解熱剤を注射したから、明け方には熱は下がるだろう。汗をかくと思うから、着替えとタオルを用意しておきなさい。
 飲み薬を調合したいんだが、何処か部屋を貸してくれないかね」
 「それならワシの研究室を使いたまえ」
 ワトソンは、研究室へ案内され、中へ入ってドアを閉めると、すぐ何かを思い出して再びドアを開け、
 「そうそう、あんたも着替えをしなさい。患者が二人に増えると困るからね」と、言ってドアを閉めた。
 そう言われて初めて教授は、自分が汗びっしょりになっているのに気が付いた。



 午前六時、ベーカー街221B。
 霧の中を小柄な男が一人歩いて来る。ワトソン博士である。
 今度はコソコソする必要はないので、堂々とドアを開けた。すると、
 「あら、ワトソンさん、おかえりなさい」と、ハドソン夫人がさして驚いた様子もなく、にこやかに出迎えてくれた。
 「や、ハドソンさん、おはようございます。すみません、朝帰りをしてしまって」
 「お気になさらないで。お疲れでしょう。朝食の準備が出来てますけど、召し上がります?」
 「もちろん、いただきますよ」
 「よかった。ホームズさんがお待ち兼ねですのよ」
 食卓ではホームズが、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
 「やあ、おはよう、ワトソン。ずいぶんとゆっくりのご帰還でしたね」と、新聞から目を離さずに言った。
 べつに怒っているわけではない。朝食のときはいつもこんな調子なのだ。
 イスをひいて席に着こうとしているワトソンに、新聞をたたみながら、ホームズは尋ねた。
 「スマイリー君の風邪は、もうすっかりと良いのでしょうか?」 「ああ、熱もすっかり下がったようだし、もう大丈夫だろう。モリアーティはあんな奴だけど、部下には……* ホームズ、どうしてそれを……」
 「ゆうべ、君がお客さんと二人で出掛けた後、ちょこっと部屋を調べさせてもらいました。その診療カバンと薬箱がなくなってましたから、すぐにバッチリとわかったってわけです」
 ホームズは、棚の上に置かれたカバンをパイプで指しながら、さらりと言って退けた。
 「やっぱり気が付いてたのか……」と、ワトソン。
 『自分のうちでコソコソしていた、あの苦労は一体何だったのだろう』と思うと、ため息まじりにそうつぶやかずにはいられなかった。
 頭のいい友人を持つのも、時にはマイナスのこともある。
 「だけど、モリアーティが病気だとは、思わなかったのかい?」
 「はじめに君を誘拐したのはアンニャロです。風邪ひきさんに、あんな力技はできんです。正直なところは、僕としちゃ、ぜひアンニャロに患っていただきたかったんですがね」と、ホームズは心底残念そうにした。
 「それなら心配ないよ。今ごろ彼は、ベッドで寝込んでるだろうからね」
 「まあ、お気の毒に……どうしてですの?」
 スープを運んで来たハドソン夫人が、話に加わった。
 「やっこさん、ゆうべはスマイリーの看病で一睡もしていないんですよ。そのうえ、部屋の中がストーブで真夏みたいに暑かったもんだから、すっかり風邪を感染されちまったらしい。私が帰る頃、クシャミを連発してましたよ」
 「あの方らしいわ……。でも、なんだか、おかわいそう……」
 「なあに、薬を余分に置いてきましたから、心配はいりませんよ。それに、彼には出来のいい看護夫もついてますしね」
 「『憎まれっ子世にはばかる』っていいますからね。アンニャロがそう簡単にくたばりっこありませんよ」
 シレッと的を射たことを言うホームズに、二人は思わず吹き出してしまう。
 「うまいっ* 言い得て妙だなー。ホームズ、君はやっぱり天才だよ」と、ワトソンは、テーブルをたたいて大爆笑。
 「ワトソンさん、そんなに笑っちゃ失礼ですわ」と、言いながらハドソン夫人も、トレイで口をかくし肩をふるわせている。
 「それにしても……」と、ワトソンは、いきなり真顔に戻って
 「今度のことで、私もいろいろ勉強させてもらったよ」と、言った。
 「勉強?」
 「そう、『敵も人なり』ってことさ」
 「そう、そうね……」
 ホームズはとてもおだやかに微笑んで、うなずいていた。
 「しかし、これでしばらくは、平和が味わえそうってなわけですね」と、ホームズは、パイプタバコの煙を吐き出しながら、遠い目で窓の外の景色を見つめていた。



 その頃のモリアーティ教授は、ワトソンの想像どおり、ベッドでクシャミを連発していた。
 「おのれ、ホームズめー。ワシの悪口を言っとるなー。風邪が治ったら今度こそ目にもの見せてくれる!」と、氷のうを吹っ飛ばすような勢いで、わめいている。
 「教授、あんまり怒ると、お熱が上がりますよ」
 やれやれ、トッドも大変なことだ。しかし、この元気ならたいしたことはなさそうだ。ホームズの平和もそう長くは続くまい。 では、我々は、モリアーティ教授の一日も早い全快と、モリアーティ一味の名看護夫の健康を祈って、次の活躍を期待することにしよう。
 モリアーティ教授、どうかお大事に……




Happy End


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