カーテンの隙間から差し込む欠けた月が、僅かばかりの光で貴様の貌を照らし出している。
仄碧いアルカイックな月の光だ。まるで貴様の営業用の笑顔のような。
その中で貴様は、胎児のように身体を丸め私に背を向け眠りを貪っている。
つい先程まで、この私に爛れた行為を強いていた男とは思えぬほどあどけない表情をして。
誰の前でもこんな姿を晒しているわけではないということを私は知っている。
私だけが知る貴様の一面。
それにささやかな優越感を憶えるようになったのはいつの頃からだったか……。
私と貴様の出会いは最悪だったことを私は今でもはっきり憶えている。
尤もそれは一方的に私の方がではあったが。
あの頃の私はまだ青く、貴様を額面どおりにしか判断出来ていなかったな。
だが貴様は、そんな私の拙さをものともせず、私の薄っぺらな常識を打ち砕いてきた。手を変え品を変え。よくもここまで……と思うような手段を用いたことは数え切れない。
それを初めは馬鹿だと思っていたが、慣れとは恐ろしいものだ。今となってはまるで当たり前のように感じてしまっているのだ。
そうだ。貴様はじわりじわりと私を浸食したのだ。そして私の隣を歩くことを空気のように当然に為果(しおお)せた
それほどの男が、戦場で唯一私の背中を預けられると信頼に足る能力を持つ貴様が、プライベートで私の前に立つと、時折……いや、かなりの頻度で、狼狽した姿を見せる。
「君が、いつもいつも、私の予想の遙か斜め上を行くからだよ」と貴様はほざくが、私の何がそれほど予想外なのか見当もつかぬ。私は至って道徳的……いや、まあ、こんな組織に所属していて道徳を説くのも些か愚かではあるが、貴様の常識外れ具合から考えれば遙かにマシなはずだ。
しかし、そんな貴様を憎からず思っている私がいる。
初めの出会いから考えれば有り得ないことだ。
不可能を可能にする男。それが貴様だったな。
巧く嵌められた気がせぬことはないが、それが不快ではない。これもまた貴様の能力の一端なのか。
むろん、私のこの感想はけして貴様に伝えてなどはやらぬがな。貴様を増長させることは目に見えているからだ。そうなったら碌なことにならぬのは短くはない付き合いで経験済みだ。
「う〜ん……」
愚にもつかぬ思いを巡らせていると、貴様は大きく伸びをしてゆっくり瞼を開いた。すると、情事の熱がすっかり冷めて鳶色に戻った両眼が露わになった。
うむ。起こしてしまったか。
「あれ? まだ起きてたのかい?」
小首を傾げて問われた。
それに私は答える。
「貴様はいびきが五月蠅いのだ。安眠妨害も甚だしい」
ずっと見ていたなど、口が裂けても言えるものか。
「失礼だなぁ。私だって何度君の歯ぎしりに起こされたことか……」
文句をたれてはいるが、顔は笑っていた。何がそんなに嬉しいのかと思うような表情で。
くそう……また、何やら都合の良いように解釈しているな。
だが、まあ良い。貴様のその顔は悪くはない。月の碧い光に照らされてやつれたように見える貌よりずっとマシだ。
「ねぇ。せっかく起きてるんなら──」
私が言い返さないのを良いことに何やら不穏なことを口走りかけるのを私は遮った。
「──続きなんぞせんぞ」
しかし言いたいことはそうではないようだった。
「違う違う。そうじゃなくてさ」
「何が違──」
皆まで言う前に私も遮られた。常に口角の上がったままの形の良い唇で。
それはなかなか離れていこうとはせず、あろうことか私の唇の隙間を割って柔らかく肉厚の舌さえもが進入してきたのだ。
「んっ……」
何も違いはせんではないか。
そう思ったが、伏せされた瞼の隙間から見え隠れする瞳は鳶色のままで興奮の気色は伝わってこない。
そうか……。貴様はただ私とこうして──。
暫くさせるがままを許していたが、それだけでは飽き足らぬ私が、その侵入者を絡め取り緩く吸い上げてやった。
すると、躯を支えるためにベッドに着いていた私の右手を、私より些か繊細な左掌が包み込んできた。私はその手に指の全てを絡める。
「ふふ……」
重なったままの唇の間から、吐息とも笑みとも取れる声が漏れる。
だが、唇は離れることはなく、蜜の交換は営まれ続ける。
不意に、どんなに取り繕おうとも、全て見透かされているのではないかという思いが湧き上がった。他人(ひと)のささやかな心の機微を読み解くのが貴様の本職だ。私の心理など言わずもがななのだろう。
そんな人を喰ったようなことは許し難い行為なのだが、不思議と今宵は腹は少しも立たなかった。この心持ちは月の魔力か貴様の能力の所為なのか……。
やがて貴様は、空いている方の腕を私の背に回した。
それに伴い、唇が解放される。
それから私をぎゅっと強く抱きしめた。
そんなことをすれば、貴様の顔が見えなくなるではないか。
そしてまるで懇願とも取れる声音で
「ねぇ。どうせ眠れないなら、朝までずっと、こうしていようよ」と呟く。
何を言うのか。貴様には会社が待っているだろう。
そうなのだ。明日からまた当分、貴様は本部に帰って来ない。
「会社のことだったら平気だよ」
どういう意味だ? 仕事より私を優先するということか?
「我が社は優秀な人材が揃っているからねぇ。私が一日くらい居なくても会社は傾いたりはしないのだよ」
くっ……。読まれている。
嗚呼……そうだ。これだから貴様は私の『盟友』たり得るのだ。そうしてまた私を離れがたい気分にさせる。
……この阿呆め……。
どこまで私を惑わせる気だ。
だがどうせ、貴様も私に惑っているのだろう? なぁ、眩惑のセルバンテス。



私も貴様を抱き返した。強く強く。
それから深い深いくちづけをする。
私以外の誰も貴様に施さないようなくちづけを……。
欠けた碧い月に見守られながら明けの金星が輝くまでずっと。








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