その日、我らが名探偵、シャーロック・ホームズとその忠実なる助手、ジョン・H・ワトソン博士は、公園を散歩していた。
最近ワトソンは、体重を少しばかり気にしているらしく、ダイエット代わりに散歩を日課としているのだ。
「な、ホームズ。たまにはこんなふうにのんびり散歩もいいもんだろ。事件以外のときは外に出ないなんて、体に良くないよ」
「そうね。だけども、ダイエットには本当はジョギングの方が良いんでしょうけどもね」
ホームズは眠そうにあくびをしながら答えた。
「厭味を言うなよ。一度の運動量よりも、続けることが大事なんだ」
「そういうもんかもね……だけど、僕は、やっぱり散歩はあんまり……」と、ホームズはそこまで言って急に立ち止まり、じっと遠くを見た。
「どうしたんだい? ホームズ」
「……あれ……」
ホームズは、百メートルほど先のピーターパンの像を指さした。
「え?」と、ワトソンはホームズが指し示す方を振り返る。そこには、休日にはあまりお目にかかりたくない人物が立っていた。
「モ、モリアーティ……」
二人は、件の人物、悪の天才モリアーティ教授に気付かれぬように、茂みの中に身を隠した。
教授は時折ポケットから時計を出して見ている。どうやら誰かと待ち合わせをしているらしい。
すると、しばらくして、
「教授ー、ごめーん、待った?」と、十二、三歳ぐらいの小柄な少年がやって来た。
来るのはてっきり、トッドかスマイリーだとばかり思っていたホームズ達は、いつも以上に好奇心をそそられ、耳をそばだたせる。
「自分から呼び出したくせに遅刻たあ、いい度胸だなあ」と、モリアーティ教授は吸っていた何本目かの煙草を、銅像の台座で揉み消しながら呆れたように言った。
「ごめーん、お土産あげるから許してよ」
少年は、体中のポケットというポケット、帽子の中、靴の中からまでも、ガマ口やら巾着やらのありとあらゆる財布を、十ばかり出して教授に手渡した。
「ほう、たいしたもんだなー。……まさか、このせいで、遅れたのか?」
「そんなことないけど、そういうことにしとこうかな」
少年は得意そうに言った。
「ねえ、教授、だからさあ、俺を子分にしなよ。損はさせないぜ」
「なんだ、しけてるなあ」
教授は財布から中身を出して、外側は全部ゴミ箱に捨ててしまった。
「もう、ちゃんと聞いてる?」
「ん? 何か言ったか?」
貰うものを貰ったら、少年に対する興味はすっかりうせてしまっているらしい。
「だーかーらぁ」
少年は、怒っているとも笑っているとも聞こえるような声で言い、苦笑いの表情で肩を震わせている。
「あー、ダメダメ。ワシの崇高な犯罪に、女子供は必要ないんだよ」
「ちぇっ。じゃあ、それ返して。親分でもない奴にあげらんないよ。苦労して手に入れた戦利品なんだから」と、少年は教授の顔の前にヌッと手を出して催促した。
「くそー、ちゃっかりしたガキだなあ」
教授は渋々懐から、さっきのコインをしまった自分の財布を出して、少年の手のひらに乗せた。
と、教授は出し抜けにあらぬ方向を指さして、
「あっ! あれはなんだ!?」と、大声をあげた。
少年は思わずそちらを見る。
「え? 何? どこ、どこ?」
そのスキに教授は、少年の手の上の財布を素早く懐へ。
「べつに、何にもないじゃない……。あーっ!!」
今度は少年が大声をあげた。
少年は自分の手のひらと、教授の顔を交互に見比べる。
「こんな初歩的な手に引っ掛かるようじゃ、まだまだワシの部下は無理だよ。ということで、こいつは教育料として貰っておいてやる。じゃ、元気でな」
あっけにとられている少年を尻目に、教授はさっさと立ち去ろうとした。
が、少年はハッと我に返り、ムンズと教授のマントを掴む。
ビターン!!
勢い余って教授は、うつ伏せにすっ転んでしまった。
「バカッ! 急に引っ張るな! ワシのワイルドでかっこいい顔が歪んだらどうする」
教授は、転んだせいで脱げてしまったシルクハットをかぶりなおしながら、少年を振り返った。
教授は自分のこの醜態に、少年が呆れるか嘲りの顔をしているものと思っていた。
ところが、意外にも少年は、思い詰めたような真摯な表情をしていたのだ。
そして彼は、教授のそばにしゃがみこむと、教授の瞳をじっとみつめて、
「どうしたら子分にしてくれるの?」と、尋ねた。
「なんで、そんなに部下になりたいんだよ?」
「えっ? そ、それは……」
理由を聞かれるのは困るのか、少年は言いよどむ。
「妙な奴だなあ。何か企んどるのか?」
「ち、違うよっ!!」
少年はすっくと立ち上がり、ムキになって否定した。
が、少し考えてから、
「俺、教授のこと尊敬してるんだ。すっげー巧妙なトリック使うし、手際が良いし、華麗であざやか。怪盗って言葉は教授のためにあるんじゃないかって思うよ。さっきの財布の早業にしたって、流石、悪の天才。もう、超カッコイイってカンジー!」と、褒めちぎった。
教授の言うとおり、何事か企んでいるのがミエミエに。
ところがおだてに弱い教授は、
「うんうん、さもあろう。ワシゃ、犯罪界のナポレオンだからなあ」と、すっかり少年の術中にはまっている。
「俺、こんなケチなスリで一生終わりたくなんだ。もっとデッカイ仕事して、大怪盗アルセーヌ・ルパンみたいになりたいんだよ」
少年は拳を握って力説する。
「そうか……。だが、そんな仏蘭西のコソ泥の真似なんかせず、ワシを見習いなさい」
「え? それじゃあ……」
「子供に犯罪学は十年早いと思ったが、そこまで言うなら、君の熱意に免じて、ワシの部下の部下にしてやろう」
「ブカノブカ?」
「ワシには部下が二人おる。ま、あんまり優秀じゃないんだがな。そいつらの部下にしてもらえ」
「ああ、その『部下』ね……。でも、どっちにしても、教授の子分なわけだ。やったね! これで俺も、モリアーティ一家の一員だ」
「ヤクザじゃないんだから、『一家』っちゅうのはよさんか」
悪の天才モリアーティ教授ともあろう者が、たかだか十二、三歳の少年に、こうもあっさり陥落されてしまうとは。
二人のやりとりを、茂みの蔭から一部始終見ていたワトソンも、あまりの教授の馬鹿さ加減に、呆れて開いた口がふさがらなかった。
しかし、同じように教授たちを見ていたホームズは、呆れるどころか、きりりと引き締まった顔をして、何やら真剣に考え込んでいた。
そのうち教授は、
「ワシの自慢のアジトへ案内してやろう」と、少年を連れ出した。
こんなチャンスは滅多にない。
ワトソンは、何故だか渋っているホームズの腕を引っ張って、コッソリ教授の後をつけた。
だが教授は、ここまでプテラノドンで来ていたらしく、まんまと空へ逃げられてしまい、残念ながらアジトをつきとめることは出来なかった。



ワトソンたちは、ぐったり疲れて下宿に帰って来た。
「とんだ散歩になっちまったなあ。残念だよ。せっかく久しぶりに冒険が出来ると思ったのに……」
ワトソンが、ドサッとソファに体を沈ませながら言うと、
「そう、ぼやきなさんなって。もうすぐオモロイことが起こりますよ。ほれ」と、ホームズは、テーブルの上に置きっ放しになっていた手紙を、ワトソンに投げてよこした。
手紙には、知的で美しい字体で、次のように記されていた。

シャーロック・ホームズ様

お初にお目にかかります。突然不躾なお便りを致しますことをお許し下さいませ。
実は、貴方様にご相談にのって戴きたいことがございます。
私の親友のことです。
事件はまだ起こってはいませんが、ほおっておけば近いうちに必ず犯罪が起こることは疑いようもありません。
どうか、親友シンディ・レイラ・スミーをお救い下さいませ。
つきましては、お返事を電報にてお知らせ戴けると幸いです。
イライザ・アニー・グランチェスタ拝

「一時に会う約束になっとります」と、ホームズは涼しい顔で言った。
「一時だって! 後、二十分しかないじゃないか。なんで、もっと早く教えてくれないんだ。女性に会うのに普段着なんて……。急いで着替えなくちゃ」
「いや、たぶん、もう間に合わんです。窓の下を見たんさい。彼女はずいぶんと切羽詰まってるようですね」
言われるままワトソンが窓から外を見ると、通りの向こう側に、遠目にも美しい女性が、221Bの方へ歩いて来るのが見えた。
五分もしないうちに玄関の呼び鈴が鳴り、美しい依頼人はハドソン夫人の案内で部屋に通された。
「初めましてホームズさん。お時間より早く伺ってしまってすみません」
「いやいや、かまいませんよ、グランチェスタさん。お急ぎになる気持ちはズキンと良くわかります」
「イライザと呼んで下さい。私、シンディのことが心配で、居ても立ってもいられませんの」
イライザは、ワトソンが手紙から想像していたとおりの、美しい顔を曇らせた。
「ご心痛お察しします。お可愛そうに。しかし、ご安心なさい。我が親友シャーロック・ホームズにお任せになれば、事件はもう、解決したも同然ですよ」
「ありがとうございます。私もそう思ってお願いに参りましたの」
イライザの顔色が少しだけ良くなった。
「では、イライザさん、詳しいことをご説明下さい」
「はい。あまり複雑で、うまくお伝え出来るかどうか……。
全てをご理解戴くためには、まず、シンディの身の上をお話ししなければなりません」
イライザは、時々つっかえたり、先に行き過ぎた話を戻したりしながら、親友シンディの半生を語った。
ホームズはその長い話に、退屈な顔ひとつせず、耳を傾けた。
その話は、要約すると次のようなものだった。



シンディ・レイラ・スミーには両親がいない。
彼女の父親は、彼女が生まれて間もなく事故で死に、母親も彼女が八つの時に病気で他界している。それは今から十年前になる。
話はその少し前のことだ。
その頃、シンディの母マリアは、一人の男と知り合った。
そいつはどこからやって来たのかわからない、風来坊のような男だった。
何の仕事をしているのか、昼間もブラブラしている。
週に二、三度、娼婦で生計を立てているマリアの元にフラリとやってきては、少しばかりの金貨を置いて去って行く。むろん、ちゃんとやることはやっていただろう。男にしてみれば、金貨はその代金のつもりだったのだから。
しかし、それは、花代にしては些か高額だった。
男はいつの間にか、マリアの常客になっていた。
定職を持っているようには見えぬのに、高額の花代を支払うミステリアスなその男に、マリアがひかれていくのに時間はかからなかった。
ギブアンドテイクのこの関係を、男もマリアも楽しんでいるようだった。
やがて男は、時折昼間もマリアの家へやって来るようになった。
男は子供がまんざら嫌いではないらしく、いつもシンディをからかって遊んでいた。シンディの方も、男を父親のように慕っていた。
母親が男を好いているらしいことを、幼心に勘付いていたシンディは、父親欲しさも手伝ってか、何度となく男に、
「ねえ、母さんと結婚しないの?」と、尋ねた。
だが、その度男は、
「結婚? そんなもん、する気はないよ」と、答えた。
「どうして?」と、理由を聞くと、
「俺には、そういう平凡な幸せは向かんからだよ」と、言う。
「でも、母さんはおじさんのこと……。おじさんは母さんが嫌いなの?」
「好きなら必ず結婚するとはかぎらんよ。ま、お前はまだチビだから、わからんだろうが」
「でも、結婚して欲しいよ」
「マリアがそう言ったのか?」
「ううん。アタシがそう思っただけ」
「だろうな。あいつも俺と結婚なんか考えとらんだろう。所詮結婚なんて、紙切れ一枚の約束事だからな」
それからしばらくして、男はぷっつりと姿を見せなくなった。
この街に来た時と同じように、ある日突然いなくなってしまったのだ。何の前ぶれもなく。
前日、帰る時も、それらしい態度は何も見せなかった。
特別な別れの言葉もない。いつもどおり、マリアと軽くキスを交わして帰って行っただけだ。
なのに、その日以降今日まで、男はシンディたちの前に一度も姿を現さない。
当時まだ幼かったシンディには、わけがわからなかった。
男を怒らせるようなことをした憶えはない。最後の夜のマリアとの様子も、二人の気持ちが冷めていると感じさせるものではなかった。
否、マリアの男への気持ちは、逢ったばかりの頃よりもむしろ、強く深くなっていたと言って良い。
何故なら、生まれてこの方、病気らしい病気をしたことのないマリアが、男が失踪してすぐ、寝込みがちになり、それから半年もしないうちに、帰らぬ人となってしまったのだから。
シンディは男を憎んだ。
いくら母親の死因は病気だとしても、その原因を作ったのは、理不尽に母を捨てたあの男だ。
あの男さえ母と結婚してくれていれば、あの男さえ出て行かなければ、いや、あの男と母が出会いさえしなければ、母は死ぬことはなかったのだ。
可愛さあまって憎さ百倍。
あの男に父親になって欲しいと望んでいた自分までもが、疎ましく感じる。
男と暮らした数ケ月間が、シンディのこれまでの人生で一番の至福の時だった。それだけに、男への憎しみはどんな感情よりも深く彼女の心の奥にわだかまり、生涯消せないものになってしまった。



「しかし、どんなに憎いと思っても、その男の行方がわからぬ以上、どうすることも出来ません。それに、たとえ恨みをはらしても、亡くなったお母様が帰って来るわけではありません。ですからシンディは、この十年、出来るだけあの男のことは考えないようにして、忘れる努力をしていました」
イライザはそこまで話して、深いため息をついた。
「ふむ。しかし、その努力も無駄になることが起きたのですね」
「はい。行方がわからないと思っていたあの男が、この倫敦にいたのです」
「貴方が見つけたのですか」
「いいえ、シンディです。公園で偶然」
「公園?」
「ケンジントン公園です」
「それはいつのことですか」
「二週間ほど前です」
「なるほどにね……。せっかく忘れる努力をしていたのに、シッカと思い出してしまったってわけですか」
「ええ。先程の昔話で、ご理解戴けたとは思いますが、シンディはとても気性の激しい娘なんです。その上、こうと思ったら即行動に移してしまうという悪い癖もあるんです。
昔の傷を思い出して、ただ腹を立てているだけなら良いのですが、あの娘はそれだけではおさまらないみたいで……」
「復讐……ですね」
「おっしゃるとおりですわ」
「しかし、復讐ったって、どこに住んでいるのかもわからないのにどうやって?」
ワトソンは疑問に思って尋ねた。
イライザはそれに、忌まわしげに眉間にしわを寄せて答えた。
「あの娘の復讐の炎は、尋常なものではありません。公園であの男を見つけてすぐに、一体どういう方法を使ったのか、あの男と知り合いになってしまいました。そして、度々逢っているらしいのです。たぶん、今日も逢いに行っているんじゃないかしら」
「シンディさんは、そのことを貴方に?」
「はい。あの男を見つけたことも、恐ろしいことを考えていることも、隠さず話してくれました。私もあの娘の考えに賛同すると思っていたのでしょうね。あの娘の憎しみの気持ちは痛いほど良くわかりますが、復讐なんて……。でも、どんなにやめるように説得しても、憎悪の念に凍りついたあの娘の心は解かせませんでした。
ホームズさん、どうか、あの娘に、シンディに、こんな恐ろしいことはやめさせて下さい」
イライザは、ホームズの手を握り、すがるような目でみつめた。
「貴方のご心中は良くわかりました。ですが、親友の貴方に説得出来ないのに、まっかっかの他人の我々の言葉には、耳を貸さんのとちゃいますかね」
「では、このまま、親友が罪に手を染めるのを、黙って見ていろとおっしゃいますの!」
「いえいえ、そういったわけではありません。他に良い方法がありましょう」
「それじゃ、シンディをお救い下さいますのね」
イライザは喜びに顔を輝かせた。
「そのためには、貴方にも少し、協力して戴かなければなりません。良いでしょうか」
「ええ。もちろんですわ。私でお役に立てることでしたら喜んで」
「では、まず、『あの男』のことをもう少し教えて下さい。シンディさんから何かお聞きになってるでしょう」
「あ……ごめんなさい……。あの、復讐のことをたしなめてしまったものですから、今、お話しした以上のことは何も……」
「それは困りましたね。まるっきり手掛かりがない……。ほんの少しだけでもいいのですよ。例えば、名前とか……。ああ、本名でなくてもけっこうです。マリアさんが呼んでいらっしゃった名前でも……。思い当たりませんか」
いくら名探偵といえども、手掛かりなしでは捜査のしようがない。
ワトソンは、親友のために、なんとか少しでも資料を得ようと、イライザの記憶の糸を手繰った。
イライザもそれに応えようと、しばらく目を閉じて、思い出す努力をする。彼女もまた、友のために必死なのだ。
そして、ふと目を開けて言った。
「お母様が、あの男を何と呼んでいたかは思い出せませんが、私、あの男を一昨日の新聞で見ました」
「えっ!? あの男の顔を知ってるんですか」
「はい。シンディが公園であの男を見つけた時、私もその場に居合わせましたから。でも、ちらっと見ただけだったので、新聞を見た時には、どこかで見たことがあるというくらいにしか、気にも止めていなくて……。ですが、今、思い出してみると、あれは確かにあの男でしたわ。ああ、でも、その新聞は始末してしまったわ……。口で説明出来るほど、はっきりとは憶えていませんの。どうしましょう……」
イライザは両手で口を覆い、今にも泣き出しそうになった。記憶力のない自分を責めているのだ。
「イライザさん、その記事の内容を憶えていますか」と、ホームズは尋ねた。
流石は名探偵。それがわかれば、彼の財産とも言える、膨大な新聞記事のスクラップブックから捜し出すことが出来る。
「ええ、それなら。国立銀行の地下金庫から、金塊が盗まれた事件が解決した記事でした。なんでも、犯人は、その金塊で自分の立像を創ったとか」
ホームズとワトソンは、思わず互いの顔を見合わせた。
それからホームズは、おもむろに立ち上がって、スクラップブックの棚のMのところから一冊取り出し、ページを繰った。
「貴方がお読みになったのは、この記事でしょう」
イライザは開かれたぺじを見て、
「そうです。ステキ! 何でもおわかりになるのね」と、美しい緑の瞳を輝かせて驚いた。
新聞記事には、少し前にホームズたちが解決した「見たか! ピカピカの大どろぼう」事件が報じられていた。
あの事件は、読者諸君もご存じのとおり、ホームズとワトソンが事件解決に大いに協力しているというのに、ワトソンのことはもちろんだが、ホームズの活躍についても一切書かれておらず、あくまで事件は、スコットランドヤードのレストレード警部の手で解決されたことになっていた。
「なんて新聞だ! 君のことが、全然書いてないじゃないか!?」
ワトソンは、ヤードの横暴さと、得意満面の笑みで写真に写っているレストレード警部に憤慨して、つい、声を荒げてしまった。
「チョイチョイ、ワトソン、今はそういった話じゃないでしょう」
話の論点を崩しそうになったワトソンを、ホームズがたしなめる。
ささいな事で感情をあらわにしてしまうのは、ワトソンの悪い癖だ。
『いかんいかん、また、ホームズに馬鹿にされてしまう』と、ワトソンは、やや自嘲気味に苦笑した。
と、その時。
「思い出しましたわ!」と、改めて記事を読み返していたイライザが、突然声をあげた。
「お母様は、あの男のことを『教授』と呼んでいました」
なんだって!?
ワトソンは驚きで、一瞬アゴが外れそうになった。
しかし、ホームズは、もうとっくに気が付いていたとみえて、まるっきりの平常心で、
「イライザさん、改めてお伺いします。シンディさんが命を狙っているのは、アンニャロ……いえ、モリアーティですね」と、確認した。
それに対してイライザも、
「はい。この男、悪の天才モリアーティ教授です」と、新聞の中で誇らしげな顔で笑っている、モリアーティ教授の黄金像を指さして、きっぱり断言した。
だが、ワトソンはどうも釈然としなかった。
教授をかばうつもりは毛頭ないが、恋の病で死んでしまうほど女を虜にする甲斐性が、果たして彼にあるのだろうか。しかも、そこまで自分にゾッコンの女を、たいした理由もなく袖にしてしまうなど、どう考えても女日照りにしか見えない教授からは、想像もつかない。
ワトソンがそんなことに思いを巡らせている間に、イライザとの話は終わったらしく、
「では、何かキラッと良い方法はないか検討してみます。なに、一両日中に結果をご報告出来ましょう。ご安心下さい。
今日のところは、お引き取り戴いて結構です」と、ホームズは、イライザを送り出した。



イライザを見送った後部屋へ戻って来たホームズたちは、どちらからともなく声をあげて笑い出した。
「フフフ……。わ、笑っちゃ失礼でしょう、ワトソン。彼女は真剣なんですから。ハハハハハハ……」と、言っているホームズの方が、よっぽどゲラゲラ笑っていた。
「アハハハハハハ……。だ、だけど、これが笑わずにいられるかい。モリアーティの奴が、命を狙われるなんてさー。ククク…しかも、女の子にだよー。いい気味だ。イーッヒヒヒヒ……。ああ、苦しい、お腹痛い……」
二人は涙を流しながら、腹がよじれるほど笑った。
「でもワトソン、冗談抜きで笑い事じゃありませんよ。我々が、アンニャロの命を守らなくちゃならないんですから」
ホームズは急に真顔になって言った。
ワトソンも、その不本意な事実を思い出して、笑うのをやめた。
「でも、こっちは、あいつのアジトも知らないんだ。警護するのは容易じゃないぜ」
「警護なんかしません」
しれっと言って退けるホームズ。
「えっ? 本気かい? シンディさんを説得もしない、モリアーティを警護もしないんじゃ、奴の命は風前の灯火だ」
「良いです。この際アンニャロには死んで戴きましょう」
「ええーっ!! ほ、ホームズ……。まさか、仕事を放棄するわけじゃないだろうね」
天下の名探偵ホームズが、いかなる理由があろうとも、いったん引き受けた仕事を投げ出すはずがないことは、長いつきあいのワトソンにはわかっているのだが、今の台詞は冗談とは受け取れなかった。
「がっかりだよ。君ともあろう者が、十八のいたいけな乙女に、殺人を犯させて平気でいるなんて……」
「ワトソン、彼女に殺人を犯させないのが僕の仕事です。そのためなら何だってするつもりですよ、僕ぁ」



その後ホームズは、「調べたいことがある」と、出掛けて行った。そして、夕食の頃にいったん戻って来ると、ハドソン夫人の折角の手料理をろくに味わいもせず胃袋に詰め込んで、再び調査に出た。
戻って来たのは翌日の早朝。ワトソンもハドソン夫人も眠って居る時間だった。



階下から聞こえて来る大きなダミ声で、ワトソンは眠りを破られた。
時計を見ると九時を少しまわったところだった。
ワトソンは、顔を洗い、服を着替えてリビングに降りて行った。
すると、思ったとおり、レストレード警部が訪問していた。
「おはよう、ホームズ。ひょっとしてゆうべは寝てないんじゃないのかい?」と、ワトソンは、既に身繕いをして食卓についているホームズに声をかけ、ついでに、
「おはようございます、レストレード警部。今日はまたずいぶん早くにいらっしゃいましたな。なんか大変な事件でも?」と、一応警部にも挨拶をした。
「早い? 何が早いもんかね。我々のような真面目な市民は、もうバリバリ働いておる時間ですぞ」
はいはい、真面目でなくて悪うございましたね。
ワトソンは思いっきりあからさまにげんなりした。
と、それに気付いてかホームズは、警部の訪問の理由を説明する。
「ワトソン、ちょいと面倒なことになりましたよ。アンニャロが、大英博物館に展示中の『地中海の女神』を盗むつもりらしい」
「『地中海の女神』? そりゃ何だい? 誰かの絵かね?」
「ワトソンさん、『地中海の女神』を知らんとは情けない。宝石ですよ、宝石。世界に一つしかないグリーンダイヤでしょう。もっと、ちゃんと新聞を読んで下さい。今時こんなことくらい、子供でも知っとりますぞ」
警部は、ふんぞりかえって自慢げに言った。
しかし、ホームズもワトソンも、その知識がついさっき、博物館から仕入れて来た、付け焼き刃だろうということは先刻お見通しだ。
ワトソンは『馬鹿は相手にすまい』とでも言いたげに、ホームズと顔を見合わせ肩をすくめる。
「それは、ご教示ありがとうございます、警部。だけどホームズ、いかにもあいつらしい、面白そうな事件じゃないか。何か問題でもあるのかい?」
「気楽に言わんで下さい。僕にはまだ未解決の事件がありましょうが」
「ホームズさん、これは国家を揺るがす大事件ですぞ。他の事件は待たせておきなさい」と、警部が横から勝手なことを言う。
「でも、ホームズ、犯人がモリアーティなら好都合じゃないか。こっちからわざわざ奴を捜し出す手間も省けるし」
別段、ワトソンは、国家権力にへつらうつもりはない。ただ、いつもの経験から、警部には逆らわぬ方が利口だと思っただけだ。どのみちホームズには断る気はないのだろうから。
「それもそうですね。僕も今度こそ、アンニャロと一戦交えたい気分ですから、調度良いでしょう。警部、この依頼、謹んでお受け致しますですよ」




ホームズたちは、モリアーティ教授からの予告状が指定した時間の二時間前に、博物館に赴いた。
来てみると、どこから動員して来たのか、無数の警官隊が、雨後の竹の子のように、あっちにもこっちにも配備されていた。
「ああ、ホームズさん、お待ちしておりました。ささ、こちらへ。展示場にご案内致します」と、博物館館長が、礼をつくして二人を館内に通してくれた。
「こちらが『地中海の女神』です」
「ほう、これはすばらしい……」
ワトソンは思わず感嘆の声をあげた。
宝石はワトソンが想像していた以上に美しかったのだ。教授でなくとも欲しがるだろうと思えるほど。
「これは、さる大財閥の、コレクターの方からお預かりしている、大切なものです。レストレード警部は、あのようにしっかり警備を固めて下さっているのですが……」
「アンニャロって者は、地面の下とお空の上が大好きなようですから、地上の入口をいくらビシッと固めても、ま、まず無駄ですわな」
「で、では、あの……」
「アンニャロが来ることは、予めわかっているのですから、手段は一つ。これをこうして……この偽物とすり替えてしまいましょう」
ホームズは、ここに来る途中に質屋で仕込んで来た、安物の緑のジルコンと、高価なグリーンダイヤを取り替えた。
「では、館長。これは安全な所へ保管しておいて下さい」
「いいえ、ホームズさん。これは貴方がお持ちになって下さい。厳重にカギをかけて金庫に入れるよりも、貴方が身につけていらっしゃるのが一番安全です」
なるほどもっともだ。ホームズより安全な金庫は他にないだろう。彼が持っていても盗まれるのなら、どんな金庫に入れたところで無駄である。
この館長、なかなかどうして、切れ物だぞと、ホームズは密かに舌を巻いていた。



指定の時刻ぴったりにモリアーティ教授は現れた。
館内の明かりが全て消えたかと思うと、天井の方からガラスの割れる大きな音がして、何か重たいものが降って来た。
警官隊はそれが教授だと思い、一斉に取り押さえにかかる。
ところが館長が予備の電源で明かりをつけると、彼らが折り重なって捕まえようとしていた物は、教授の風船人形に重りをつけたダミーだった。
「しまった! 謀られた!! 奴はどこだ。モリアーティを捜せ」
人山の一番下から、レストレード警部が大声で叫んだ。
その時、本物の教授は、『地中海の女神』の展示ケースのすぐそばにいた。
ケースの中には既に宝石はなかった。
それに気が付いた警部が、慌ててそっちへ行こうとすると、警部の足元でけたたましい破裂音がする。教授が癇癪玉を投げ付けたのだ。
あっという間に館内はパニック状態になってしまった。教授が忍び込んでから僅か一分足らずで。
しかし、本物の宝石が無事なことを知っているホームズたちは、いたって涼しい顔で高みの見物を決め込んでいた。
「はー、いつもながら大変な騒ぎだね、こりゃ」と、ワトソンが、半ば呆れて呟いたのとほとんど同時に、右往左往している警官隊の一人が、勢いよくホームズにぶつかった。
「ワトソン! 今の警官の顔をよく見てごらんなさい」と、ホームズは、警官を見ないようにして、ワトソンに囁いた。
「え? あーっ!」
「シーッ! 大きな声を出さない」
「昨日の子じゃないか」
それは、昨日、ケンジントン公園で、モリアーティ教授にしきりと取り入っていた、あのスリの少年だった。
少年は、その後もパニックに乗じて、誰彼かまわずぶつかって歩いていた。警官の懐を当てにしているのだろう。
世界一の宝石を狙う怪盗団の一員にしては、やることが少々セコい気がする。だが、世界一貧乏臭い犯罪組織、モリアーティ一味の一人と思えば、その行動も納得いかないことはない。
「グズグズするな! 早く来い」
もう、出口まで逃げおおせていた教授が、少年を呼び寄せる。
その時、誰かがぶつかったのか、ギリシャ彫刻の巨大な石膏像が、少年に向かって倒れて来た。
「キャー!」
「シンディ、危ないっ!」
突然のことで、どうすることも出来ずにいた一同の中から、素早く誰かが、像と少年の間に割って入った。
「モリアーティ!?」
誰もが我が目を疑った。
教授が石膏像を背中で受け止めていたのだ。
「は、早く逃げろ……。この像、重いんだよ」
「は、はい」
教授は少年が、石膏像の有効射程範囲から抜け出したことを確認すると、像をもとどおりにするため、渾身の力で上半身を起こした。
と、その瞬間。
グキッ!
あまり大きくはないが、なんだかいやーな音がした。
タラーリ。
教授の全身を冷や汗がつたう。
ところが誰も、かのホームズさえも、教授の肉体に起こった異変に気付いていないようだった。
それどころか一同は、信じられない出来事に、金縛りにあったかのごとく、ただ茫然と立ちつくしているばかりだったのである。
これならばなんとかなる。
教授は不自由な下半身を引きずって、出口から外へまろび出た。
ステッキを杖にして教授は、どうにかこうにか、博物館から離れたところまで逃げ出した。
教授は今日ほど、ステッキをステイタスシンボルにしていて良かったと思ったことはなかった。
その頃、一早く我に返ったホームズが、
「ワトソン、追います」と、ワトソンを伴って、博物館の外へ出る。
「ホームズ、あの子は奴のスパイだったのかな?」
ワトソンは、先を走っているホームズに追いすがりながら尋ねた。
「いや、ちゅうよりも、スリの腕を買われたんでしょ。アンニャロって者は、犯罪にかけては恐ろしく切れる男です。僕がどうやって宝石を守るつもりかはお見通しだったんでしょう。折角スリを部下にしたのなら使わない手はありません。実際、彼女の腕前は見事なもんですからね」と、ホームズは振り向かずに答え、どんどんワトソンから離れ、先へ行ってしまった。
そして、少し先で、とうとう腰の激痛にたえかねて、地べたにへたりこんでる教授を発見した。
ホームズは足音を忍ばせて教授の背後に近づき
「そろそろ、年貢の納め時ですね、モリアーティ教授」と、懐から出した銃を背中に突き付けた。
「ゲッ! 正義の名探偵が、そんな危険な物を持っていて良いと思ってるのか!!」と、教授は、悪党の癖にやたらモラリストなことを言う。
「貴方に言われたくありませんよ」
「ほ、本気で打つ気か……」
教授は腰の痛みからではない汗が、背筋を伝うのを感じた。
「はい。覚悟して下さい」
ホームズは能面のように無表情に言った。
教授は下唇を噛み締め、ぎゅっと瞼を閉じた。
ズキューン!!
鋭い銃声が轟いた。
と、同時に、モリアーティ教授はドサッと前のめりに倒れる。
純白のマントが、真紅に染まっていた。
銃声を聞き付けたワトソンが、ホームズのそばへ走り寄り、倒れている教授と、それを無感情に見下ろすホームズとを、交互に見る。
「き、君が殺ったのか……」
「ええ」
「な……」
「キャー! 教授ー!!」
ワトソンの言葉にかぶせるように、同じく銃声を聞いて戻って来たスリの少年が悲鳴をあげた。
そして慌てて教授に駆け寄り抱き起こしたが、意識はなかった。
「ひどい……。なんてことを……。人殺し!」
少年はホームズをキッと睨んで罵った。
だが、ホームズは顔色一つ変えずに言った。
「貴方の代わりをしてさしあげたまでです、シンディさん」
やはりこの少年は、シンディ・レイラ・スミーだったのだ。
先程の事故の時から、ワトソンも薄々勘付いてはいた。が、十八歳の乙女とスリの子では、ギャップがありすぎて確信が持てずにいたのだ。
でも、ホームズがそう呼ぶからには、間違いなくこの娘はシンディなのだろう。そう考えれば、いろいろなことに納得がいく。
しかし、だからと言って、モリアーティ教授を殺すことには納得出来ないものがある。
いくら相手が悪党といえども、ここまでする必要はないはずだ。
ワトソンのその思いを知ってか知らずかホームズは、相変わらずの鉄面皮でシンディに言った。
「今の貴方は、復讐心に凝り固まって、誰の言葉にも耳を貸さないでしょう」
「……イライザね……。イライザがあんたに頼んだのね。おせっかいな娘だわ」
「どなたからの依頼でも良いでしょう。とにかくこれで、貴方は復讐する必要はなくなったってわけです」
ワトソンの脳裏を、昨日のホームズの台詞がよぎった。
『彼女に殺人を犯させないのが僕の仕事です。そのためなら何だってするつもりですよ』
あれは、こういう意味だったのか。
「そんな……。アタシのために教授を……」
憤っているシンディの肩に、ホームズは慰めるようにそっと手をおいて、
「貴方のためではありません。これは貴方には何の責任もないことなんです。もともと、貴方には、モリアーティに復讐する必要なんてなかったんですから」
「ど、どういうこと?」
「失礼ですが、貴方のことはいろいろ調べさせてもらいました。それでわかったのですが、この男は、貴方が復讐すべき相手ではないのです」
「?」
「貴方のお母さんのマリアさんは、モリアーティのせいで亡くなったわけではありません」
「うそっ!!」
シンディは、泣き出しそうな顔で叫んだ。
と、その時、教授がムクリと上半身を起こした。
「いてーっ! ホームズめ、無茶しおって! 死ぬかと……。ん? ワシゃ生きとるのか?」
「教授、無事だったのね。良かったー
シンディは喜びに顔をほころばせ、教授に抱きついた。
するとそのはずみで、
グキッ! と、またもやいやな音が。
教授は顔面蒼白になってもんどりうった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛〜。こ、腰が、腰がぁ……」
シンディは、何が起こったのかわからず、目を丸くしている。
「ははーん、さては、さっきの石膏像を受け止めたせいで、腰が外れましたね。年甲斐もないことをするからですよ」と、ホームズは、意地悪な顔で言った。
「うるさいわっ! ワシゃまだ、若いよっ!! クーッ、イテテテ……」
「だ、大丈夫? 教授……」
「触るなっ」
心配してそばに寄ったシンディは、教授に怒鳴られて、ビクリとなった。
「触られると痛いんだよっ!」
「ご、ごめんなさい……。アタシなんか助けたから……」
シンディは申しわけなさそうに教授を見つめている。
「まったく、年寄りの冷や水はこれだからやんなりますよ。騒がしいったら……」と、ホームズはあからさまに嫌な顔をして言った。
そして、
「ワトソン、これじゃ、やかましくて話になりません。薬がもったいないですが、手当をしてやって下さい」と、頼んだ。
「わかった。しかし、ほっとしたよ。ペイント弾だったんだね。私はてっきり君がモリアーティを殺しちまったのかと……」
ワトソンはそう言って、懐から携帯用の注射器のケースを取り出すと、まだ、腰を押さえて呻いている教授のそばにしゃがんだ。
「シンディさん、鎮痛剤を打つから、モリアーティの体を押さえてて下さい」
「あ、はい」
シンディは素直に従った。
ワトソンは、教授の衣服をまくって患部を出し、
「さてと……」と、注射器を構える。
キラーン。
注射器は月光を浴びて輝き、いかにも痛そうに見える。
それを見た教授は狼狽した。
「お、おい、それを打つのか? よせっ! ワシゃ、先端恐怖症なんだよ」
「ハッハッハ……。大丈夫。すごーく痛いが、打てばすぐに楽になるよ」
ワトソンはものすごくうれしそうにしている。
「ま、待て、待ってくれ……」
ブスリ。
注射針が患部に突き刺さった。
「ギャーッ!!」
悲痛な叫びが夜空にこだました。
「ハァハァハァ……」
教授はあまりの出来事に、肩で息をしている。
が、ワトソンの言ったとおり、みるみるうちに腰の痛みが和らいで行き、自力で体を起せるようになった。
ホームズはそれを見計らって、
「さて、教授も元気になったようだし、本人の口から無実の証明をして戴きましょうか」と、促した。
「無実?」
ギックリ腰のゴタゴタで、今の状況が把握出来ていない教授は、訝しげに聞き返した。
「貴方が、彼女のお母さんを殺した罪についてです」
「人聞きの悪いことを言うな。ワシの殺人は成功したことがないんだよ」
「殺人じゃなくても、あんたに殺されたようなもんよっ!」と、ホームズの言葉で、恨んでいたことを思い出したシンディは、教授の胸ぐらを掴んで、ブンブン上半身を揺さぶった。
「わーっ! やめろシンディ。また腰が外れたらどーする」
「あ……。ごめん……。えっ? アタシがシンディだっていつから気が付いてたの?」
シンディは、はっとして手をはなし、じっと教授をみつめた。
「18行目から」
「一番最初っからじゃない!!」
シンディは決まりの悪そうな表情をした。
「なんだ……じゃ、何もかもお見通しだったってことね。なのに男の子のフリなんかして、なんだかアタシ漠迦みたい……。でも、どうしてわかったの?」
「お前は、マリアにそっくりだよ」
教授は、ホームズたちが一度も見たことのないような、優しい眼差しをシンディに向け、懐かしそうに彼女の頬を撫でた。そして、
「……そうか……。マリアは死んだのか……。やっぱり……」と、哀しそうに呟いた。
「やっぱり? 死ぬことがわかっていたのかね?」
ワトソンは不思議に思って尋ねた。
「マリアさんは、教授がいる頃から発病していたんですよ」と、教授に代わってホームズが答えた。
「そんな……。そんなこと全然知らなかった……。だって、母さん、なんにも言ってくれなかったんだもの」
「お前に知らせたくなかったんだよ。子供には酷な話だからな。手術をすれば治らんこともなかったんだろうが、そんな大金はワシにもマリアにも……」
「だから、母さんを見捨てたの?」
「そうじゃありません、シンディさん。教授には、助けたくても助けられない事情があったんです」
「余計なことを言うな! ホームズ」
「いいえ、彼女には、真実を知る権利があると思いますよ」
「教えて! アタシの知らない何が、この人と母さんの間にあったの?」
「十年前の最後の夜、この男は、手術の費用を手に入れるため、ある物を盗みに行ったのです」
「ある物って?」
「『地中海の女神』です」
「それって……」
シンディは、自分の懐を押さえた。
「はい。それさえあれば、マリアさんを大きな病院に入れても、まだお釣りがくるでしょう。でも、その宝物は、当時の教授には、文字通り十年早い代物だった。
教授、別荘には何年くらいお世話になったんですか?」
ホームズは、いじめっ子さながらに喜々として尋ねた。
「うるさいっ! すぐに脱走してやったわい」
「そうですか。それはそれは……。でも、戻って来た頃には、もう、マリアさんの家は売りに出されていて、消息が掴めなかった」
「し、知らなかった……。そんなこと考えてくれてたなんて。でも、お金なんていらない……。母さんのそばにいてあげて欲しかった。母さんは最期まで教授を忘れていなかったわ。教授に逢いたがってた。死ぬ時も、何度も何度も教授を呼んでいたのよ」
教授は無言で、辛そうにシンディをみつめた。
と、その時、
「いたぞー! モリアーティ! 今日こそ、とっ捕まえてやる」と、遠くから大きなダミ声がして、レストレード警部と警官隊が近づいて来た。
「ま、まずい!」
教授の顔つきが一瞬にして、お仕事モードに切り替わった。
そして、腰を押さえながらも、トッドとスマイリーの待つ、逃亡用の気球の方へ逃げて行く。
教授の姿が見えなくなった頃、警部はようやくホームズたちのところまでたどり着いた。
「あ、ホームズ、モリアーティは?」
「あっち」と、逃げて行った方を指す。と、その方角から、モリアーティ型気球が、フワリと中に舞い上がるのが見えた。
「おお、あれか! ゆけー! 怯むなー! 追いかけろー!」と、警部は雄叫びをあげ、警官隊をゾロゾロ引き連れて、ひたすらまっすぐ追いかけて行った。
「もう、復讐なんてしないと約束してくれますね」
ホームズは、気球を見送っているシンディの肩に両手を置いて、優しく尋ねた。
「もちろん。本当のことがわかったんですもの。母があの人のことを好きになったのは間違ってなかったのね。ちょっと悔しいけど」
「その悔しさは、これで帳消しじゃないですか?」と、ホームズは、シンディの内ポケットから「地中海の女神」を抜き取った。
「今頃、空の上で悔しがっとるでしょう」
「……さっきはちょっとカッコイイかもと思ったけど、やっぱり、どっか抜けてるのね、あの人」
シンディは呆れた顔で、そう言った。が、すぐ真顔に戻って、
「もう、逢えないのかしら? アタシ、まだ教授にあやまってないわ」と、呟く。
「いや、きっと、またすぐ会えますよ」と、ホームズは答えた。
「そっか、そうよね」と、シンディは清々しく微笑んだ。そして、気球が消えて行った空を、憧憬の眼差しでみつめて言う。
「あの人は、犯罪界のナポレオン、悪の天才モリアーティ教授。神出鬼没の大犯罪者だものね。すぐに逢えるわ。きっと、また、どこかで……」





Happy End




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