【室井編】


とうとう約束の日が来た。
私はこの日を待っていたのか?
朝から、いや、もっと前からか。どうにも落ち着かない気分だ。
昨晩は眠りが浅く、夜中に何度も目を覚ました。些か寝不足だが、今は眠れるような気がしない。
心拍数も上がっている。なにやら胸苦しい気がするのは、気圧の変化の為だけではなさそうだ。
「室井管理官、到着しました」
パイロットの声を聞いて、私の動悸はさらに激しくなった。
「室井さ〜ん」
「あ、青島!!」
驚いた。外でおとなしく私の到着を待っていればいいものを。この男はいつもこうだ。
「へへへ……。ホントにこれで迎えに来てくれたんスね」
勝手に扉を開けて中に入って来た。どうやらこいつは遠慮という言葉の意味を知らないらしい。
「へえ……。中はこんなんなってるんだあ。以外と狭いですね」
パイロットが訝しげにこちらを見ている。それも仕方がないことだ。私が彼の立場でも同じ事をしただろう。そのくらいこの青島俊作という男は警察官に見えにくいのだ。
だが、私は知っている。彼ほど警察官に相応しい男は他にはいないことを。
「やってくれ」
私の命令で、ヘリは静かに上昇し始めた。
「おおっ! 飛んだ!」
「あたりまえだ」
「いや、それはそうなんだけど……。俺、こういうのに乗ったことないんですよ。なんか感動しますね。やっぱ」
「そうか? 私は何も感じないが」
「そりゃ、室井さんは、毎日乗ってるから……」
「乗ったのはまだ二度目だ」
「え?」
「ヘリを使用するためには警備部に書類申請しなければならない。経費もかかる。たびたび使うわけにはいかない」
「へー、そうなんスか。じゃ、パトカーと同じだ」
「……」
「……え? てことは、もしかして俺のために?」
「……」
「マジで? もーっ! 室井さん律儀なんだから」
青島はそう言って突然私に抱き付き、私を左右に強く揺さぶった。まったく、スキンシップの激しい男だ。
「ちょっと! お二人とも、ヘリの中で暴れないで下さいよ!!」
また、青島のせいで叱られてしまった。こいつといるとろくなことがない。
だが、そんなに変だろうか? ヘリで来いと言ったのは君じゃないか。私は約束は守るよう心がけている。特に友人との約束は絶対に破りたくはない。それが警察官としての最低限のモラルというものだ。





「失礼しまーす」
私の後に続いて、青島が部屋に入って来た。他人を自宅に呼んだのは何年ぶりだろう。学生時代以来か。ならば、この部屋には彼が初めてと言うことになる。
「適当に座ってくれ」
「はーい」
彼は素直に卓袱台の前に座った。
「ビールでいいか? 日本酒もあるが」
「あ、じゃ、ポン酒で。地酒ですか?」
「ああ、実家から送って来た」
「秋田でしたよね。きりたんぽ。俺、食べたことないんです」
「君は、東京か……」
「今日、ホントに鍋なんですね」
彼は、テーブルの上の土鍋のふたを開け、中身を確かめている。
「なんだ……。まだ空っぽか。ねえ、きりたんぽってどんなもんなんですか?」
「見たことないのか? お茶のCMでやってたろう」
「あ、小林聡美の。蒲鉾みたいなやつね」
「それは笹蒲鉾だ。きりたんぽはこれ!」
彼はどうやら、初めて見るきりたんぽがめずらしいらしく、串を持ってためつすがめつ眺め入っている。
「でかいですねー。こんなもん鍋に入るんですか?」
「切るに決まってる」
「あ、そうか……そりゃ、そうっスよね」
彼は、決まり悪そうに頭を掻いた。ほほえましい仕草だ。
無知で無鉄砲で無分別だが何故か憎めない。出来の悪い弟を見ているような気分になった。
「今準備する。もうちょっと、時間かかるから、風呂でも入るか?」
今晩は彼を泊めるつもりでいる。風呂はアルコールが入る前の方がいいだろう。
「あ、いいんですか。じゃ、もらっちゃおうかな」
「風呂はそこの扉だ」
「あのー」
「タオルは出してある。石鹸とシャンプーは好きに使っていいぞ」
「いえ、そうじゃなくて……」
「?」
「一緒に入って、流しっこしません? 修学旅行みたいで楽しいですよ」
「……馬鹿言うな。ユニットバスだぞ。狭くてそんなこと出来るわけないだろ」
「あははは……そうですね。すいませーん、一人で入りまーす」
青島は、やや気落ちしたようだったが、それでも素直にバスルームに入って行った。
呆れた奴だ。子供のような男だとは知っていたが、これでは本当に小学生だ。そうは思っていても自然に口元が緩んでしまう。
可愛い……。
男にそんな形容は失礼だろうか。





「♪海を潜るには〜息を止めなきゃ潜れない〜♪」
「うわあっ! びっくりした。いつの間に……おどかすな」
突然背後で声がして、驚いて振り返ると、
「一世風靡ですね。懐かしいなあ。俺、昔ファンだったんスよ」と、悪びれた風もなく青島が言う。
「え?」
「今、口ずさんでた歌」
「唄ってたか?」
「ええ、バッチリ、くっきり、はっきり」
気が付かなかった。私はそんなに気分が高揚しているのか。まだアルコールも入っていないのに。
「けっこう、歌上手いっスね。今度カラオケ行きましょうか」
「……」
「あ、笑ってる。本気にしてないでしょ」
「いや、そうじゃない。ただ……」
「ただ、何ですか?」
……楽しい。
そうだ。無意識に鼻歌が出るほど楽しいのだ。他人といて楽しいと思える感情がまだ私にも残っていたのか。
「まだ、笑ってる」
「さあ、準備出来たぞ。座れ。美味いの食わしてやる」
「うわーい」





「あーっ美味かったあ。もー腹いっぱい」
「デカイ声出すな。お前、酔ってるだろ」
「室井さんだって酔っぱらってるれしょ」
「俺は……そうかもな……」
「やっぱり。でも、すごい」
「何が?」
「……言っても怒らない?」
「言わなきゃ、わからないだろう」
「……酔っぱらっても、標準語なんですね」
「……方言を使うと部下に舐められる」
「俺は……嬉しいけどな」
「嬉しい?」
「方言が出ちゃうってことは、安心してるからでしょう」
「……」
「信頼されてるってことですよね。信じてもらえるってのは、やっぱ、嬉しいですよ」
「そうか……」
「それに方言ってなんか暖かい感じがするし。好きだな」
「……そんなこと言われたのは初めてだ」
「それは、みんな、警戒してるからですよ」
「警戒?」
「俺、東京出身だからよくわかんないっスけど、方言で喋りたい人多いんじゃないかな。本店にいる人みんな、東京者ってことないだろうし。みんな室井さんと同じなんですよ、きっと」
そんなこと、考えてみたこともなかった。
「……不思議だ……」
「え?」
「君といると、くだらないことで悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる」
「くだらないとは思わないですけど、一人で悩むのは辛いですよ」
「……」
「俺じゃ、役に立たないとは思いますけど、辛いことがあったら言って下さい。俺、いつでも話聞きに来ますよ。聞くだけしかできないけど」
胸が熱くなる言葉だ。
正義の味方。
不意にその名が頭に浮かんだ。彼の天職はそれかもしれない。
「……酔ってるんじゃなかったのか?」
「は?」
「警察官みたいなことを言う」
「警察官ですから」
「そうだったな……」
「酔ってんのは、室井さんの方じゃないですか」
そうかもしれない。こいつが来たときから私はもう酔っていた。
「だって……ほっぺたが赤い……」
青島の掌が私の頬に触れる。
気持ちいい……。
冷たい手が火照った頬に心地いい。手が冷たい人間は心が暖かいと言うが、あれは本当のことだと思う。心が安らぐ。
私はそっと瞼を閉じた。そして、彼の手の甲に自分の手を重ねた。
「あの……室井さん?」
とまどいを含んだ声。困っているのか? わかっている。自分でもらしくないことをしているのは。
「もう少し、このままでいてくれ」
「……」
青島は今、どんな顔をしているのだろう。あの柏木雪乃という女性に向けたような、慈愛の微笑みだろうか。それとも……
「!」
予想外の感触に私は目を見開いた。青島の顔がすぐ側にある。
何が起こったのかすぐには理解できなかった。
私が硬直したままでいると、彼の顔がゆっくり遠ざかっていく。
「抵抗しないんですね。よかった。殴られるかと思っちゃった」
「……」
「……室井さん? 室井さん?」
「……今のは……何だ?」
「何って……チュウ」
「……」
「キスですよ。……いや……でした?」
嫌も何も、何故こんなことをするのかがわからない。今の行動にはどういう意味があるのだ。
「青島、酒が過ぎるんじゃないのか。冗談は相手を選んで……」
そこまで言って私は、言葉に詰まった。
いつものヘラヘラした表情とはまったく別の、真剣な眼差しで私を見つめていたからだ。
「冗談にしちゃうんですか」
「……」
「俺、真剣なんですよ。今、すっごい、勇気振り絞ったんスから」
「……」
「今、俺、心臓バクバク言ってます」
心臓? それは私も同じだ。君が来るとわかったときから心拍数は上がりっぱなしだ。それは今も……そうだ。今も胸が苦しい。しかしそれは、けっして不快な苦しさではない。
「なんか言って下さい」
「……」
「黙ってないで答えて下さい」
そうは言われても、何を言えばいい?
これは何だ? 一体どういう状況なんだ。
尚も沈黙していると、青島は、私の両肩を掴んで畳に押し倒した。
「黙ってると犯しちゃうぞ」
冗談めかした台詞だが、目は真剣そのものだった。
状況が飲み込めず、されるがままになっている私を、青島は強く抱きしめた。
「室井さん……室井さんの心臓もドキドキしてる……」
青島が思いつめたような掠れた声で囁く。
その声が私の心拍数を更に上げていく。
胸の奥から甘く苦しい感情がわきあがってきた。
青島は……青島は私を好きだと言っているのか。尊敬にあたう上司としてではなく、恋愛対象として。異性に対して抱く気持ちと同じ想いで、私を好きだと。
信じられない。どうして突然そんな……。
そんなことがあるはずがない。
しかし、ぴったりと合わせられた体が、言葉に嘘はないことを物語る。
「君もだ……」
私よりも早く脈打つ心臓。
青島……本当に君は私を……。
「室井さん……いい?」
青島が囁く。
私は返事をする代わりに目を閉じた。
なんて仕草だ。これではくちづけを待つ少女のようだ。
私も青島も男同士だというのに。
だが、きっと、これは私自身も望んでいたことなのだ。
私に迷いはなかった。
これが背徳であることも、禁忌であることもわかっている。
それでも私は、この告白を胸が痛むほど嬉しいと感じているのだ。
青島……青島……。私は君が欲しかった。もう、ずっと以前から。
私の欲を満たすように、青島の唇が私のそれをふさぐ。触れ合うだけの優しいキス。心臓が跳ね上がるのを感じた。
唇を重ねたまま、指が髪を撫で耳の形をなぞり首筋へと降りて行く。そして、その指が衣服のボタンを上から一つずつゆっくりはずして行った。
それにともない唇は離れ、顎を通って首、鎖骨、胸へと移動する。
胸を這う唇は、時々強く肌に吸い付いた。その度、甘い疼痛を感じる。
「あ……青島……」
「……」
答えはないまま唇は左側へ……
「!」
意志とは無関係に私の体は小さく痙攣した。
「あ……乳首(ここ)はイヤですか?」
「聞ぐな、んなごど!」
嫌かと言うなら、こんな行為自体が嫌かどうかもっと早く聞くべきだろう。ここまで来ておいて今更そんなことを言っても、私にどう答えろと言うのだ。
青島のあまりに無粋な質問に思わず上半身を起こした私を、彼は照れくさそうに見つめ返した。その表情は私には眩しくて、思わず視線を逸らしてしまう。
おさまりかけていた動悸がまた激しくなった。頬が熱い。アルコールのせいではない。覚悟は決まっているつもりだったのに、急に激しい羞恥が沸き上がってきたのだ。
でも、それはしょうがないだろう。男相手にどうすればいいのか、皆目見当もつかないのだから。
そんな私をじっと見つめて青島は突拍子もないことを呟いた。
「……室井さん……色っぽい……」
「☆▽※×@;!!」
感情だけが先走って言葉が出てこない。
どうしてそんな恥ずかしいことが平気で言えるんだ、この男は!
「俺、室井さんが好きです! もう、我慢できません。ケダモノになっちゃっていいですか」
「なっ……普段がらケダモノみてなもんじゃねが!」
吐き捨てるようにそう怒鳴った。それが精一杯だった。
恥ずかしい……。
胸が痛いなんてものじゃない、口から心臓が飛び出しそうだ。
「そいじゃ、失礼しまーす」と言うと青島は、私の顎を右手で掴み左腕で肩を抱いて、貪るようにくちづけた。
「う……」
先程のパニックのせいで、どう対処していいのかわからず戸惑い、閉じたままでいた私の唇を割って、青島の舌が私の口内に侵入してくる。私の舌を探るように蠢いていた。
くそっ……完全に主導権をにぎられてしまっている。
悔しくて、私も負けじと青島の舌を絡め取った。
柔らかいそれは、想像以上に私の官能をくすぐった。
頭の芯が痺れていき、思考が停滞する。動悸は正常に戻ったが、体は熱く火照っていた。
顎を掴んでいた青島の指がまっすぐ下へ滑り降り、やがて太股に辿り着く。這い回る指が私の体を昂ぶらせた。
「あ……」
思わず、私の唇から声が漏れる。
青島は薄く笑ってきつく私を抱きしめた。
畜生……勝った気でいられるのも今のうちだ。
私も強く強く青島を抱き返した。そして逞しい背中を指でなぞる。
すると青島は溜息のような声で私の名を呼んだ。
そうか、ここが弱いのか。
それがわかると可笑しくなった。
同時にたまらない愛しさが沸き上がる。
私は青島の耳元に口を寄せ、わざと扇情的に呼んでやった。
「……青島……」
「む、室井さん……」
青島は折れるほど強く私を抱く。
そのせいで青島の顔は見えなくなった。見えるのは彼の後ろにあるテーブルだけだ。
「室井さん……」
彼は切なく私を呼びながら、私の躰を撫で回す。夢中で。
「! 青島っ」
「……」
「あ、青島……」
「……」
「……青島」
「……」
「返事しろっ! 青島っ!!」
「へ……呼んでたんですか?」
「後ろ!」
「え?」
「後ろだ。離れろ!」
青島はキョトンとした顔で後ろを振り返った。
「あーっ! 鍋!!」
青島の視線の先で土鍋がモクモクと仄黒い煙を上げていた。
青島がおかしなまねをするものだから、コンロの火を消すのをすっかり忘れていたのだ。
「室井さん、火消して、火!」
青島は慌てて素手で鍋を持ち上げようとした。
「ぶ、わぁっちぃ!」
「青島っ! 手は大丈夫か」
私はコンロの火を消してから青島の方を見た。すると彼は情けない表情で
「俺は大丈夫っスけど……あの……鍋が……」と台所のフローリングの方まで転がしてしまった鍋へ視線を移動させた。
「あーっ!」
鍋は見事にまっぷたつになっていた。
「買ったばっかりだったのに」
鍋ごときで責めるつもりはなかったが、つい口を突いて出てしまった。
「……すいません……」
「もういい。壊れてしまったものは仕方がない」
「でも、おニュウだったんでしょ」
「君が来ると言うから……」
「わざわざ俺のために?」
「勘違いするな! 鍋がなかったから買っただけだ。きりたんぽ食わす約束だったからな」
「室井さん……」
青島はなんともしれない表情で私を見つめている。
「かわいいっ芥」
私は青島に力一杯抱きしめられた。
「ば、ばか。離せ」
「やだ」
身動きがとれない。
「室井さん芥」
「……」
「続きしよ」
「え?」
もうそんな気は全然ないのにか?
青島は有無を言わせず馬乗りになり私の衣服を剥ぎ取った。
「やめろ、青島! このケダモノ!」
「ケダモノだもーん」
「ば、ばか、そんなとこ触るな! あーっ!!」
どうしてこいつといるといつもろくな目に遭わないんだ。
くそっ。もう絶対、青島は家には呼ばねぞ。もう来るなー!!




青島編へ続く




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