「ふふふふ……はははは……うわっはっはっはっ!」
のっけから奇声を聞かせて申し訳ないが、これは我らが悪の天才モリアーティ教授の笑い声である。
どうやらいつものように、また良からぬことをしでかしたらしい。
「見ろ見ろー! ワシの輝かしい活躍がトップを飾っておるわい」と教授は、ロンドンタイムズを手に得意そうにした。
教授の言うとおりタイムズの第一面では、
「魅惑のダイア、ノーザン・ライツ盗難」の記事が華々しく報じられている。
ところが、世間の驚嘆に有頂天になっている教授とは逆に、トッドは渋い顔をしていた。
「新聞に載ったからってどうだっつーんですか」
「なにぃ、人がせっかく勝ち誇ってるのに、水を差すなよ」
「まだ勝ったわけじゃないでしょ。ちゃんと宝石を換金しないと……」
「そりゃ、ワシの管轄じゃないよ。お前がブローカーに話をつけんから……」
「ブローカーには当たってみましたよ。だけど、石がデカすぎて誰も買ってくれないんスよ! こんな宝石盗んだって、金にならなきゃ何にもならないですよっ!」
「うるさいよっ! ロマンのわからん奴だなあ」
「ロマンじゃ腹はふくれません!」
「ゴチャゴチャ細かいことを言うなよ。武士は食わねど高楊枝と言うだろうが」
と、その時。
キュ〜グルグルグル……と、教授の腹の虫が……。
「ぜんぜん、説得力ねー」
トッドは思いっきり冷めた眼差しで教授を見た。
「うるさい、うるさいっ! しょうがないだろう、生理現象なんだから」と教授は、真っ赤になって喚く。
二人が大モメにもめているというのに、モリアーティ一味の残りの一人、スマイリーは、テーブルの上に鎮座ましましている件の宝石に見とれていた。
「はあ〜、きれいだねえ……。ねえねえ、アニキ見てよ。こっちからとそっちからじゃ、ちがう色に見えるよ」
あわや喧嘩になりかけていた教授とトッドだったが、スマイリーの台詞に一時休戦となった。
テーブルのそばへやって来た二人は、互いに反対側からシゲシゲと宝石を眺めた。
確かにスマイリーの言うとおり、見る角度によって淡いピンクに見えるかと思えば、薄いブルーにも映る。スマイリーの方角からは、どうやら微かなパープルに見えているらしい。その名のとおり正にオーロラを思わせる輝きを放っている。
「ほんとだ……魅惑の宝石って言うだけのことあるっスね」
「さもあろう。なんしろ、このモリアーティ様が目を付けた宝石だからな。でも、あんまりじっくり見ない方がいいぞ」
「なんでですか?」
「いわく付きの石だからだよ」
「いわくつき? それって呪われてるとか? そんな石だったらますます盗んでも……」
「バカモン。そんなわけないだろ。そんな物騒な物だったらいくらワシでも盗まんわい。幽霊騒動はもうたくさんだからな」
「俺ももうこりごりですよ。だけど、それじゃ、どういういわくなんですか?」
「なんでも、ずっとみつめてると、石に魅入られて手放せなくなっちまうそうだ。ひどい奴は、性格まで変わるらしいぞ」
そこまで話して二人はハッしてスマイリーを見た。確かスマイリーは、二人が言い争いを始める前からノーザン・ライツを見ていたようだが……。
「教授、そういうことはもっと早めに言ってくれないと……」と呟くトッドの前には、手のひらに乗せたノーザン・ライツを怪しげな笑みを浮かべてみつめるスマイリーがいた。
「この宝石を売っちゃうなんていやだからね」
「何言ってるんだ、スマイリー。それを金に換えなきゃ、明日食う物だってねーんだぞ」
「いいもん、この石がなくなっちゃうくらいなら、腹ぺこなのをがまんした方がいいよ」
「馬鹿なこと言ってないで、石を返せよ」と、トッドがスマイリーの手からノーザン・ライツを取ろうとすると、スマイリーは
「やだっ!」と手を後ろに回してドアの方へと二三歩後じさった。と、ドンと何かに背中がぶつかった。
おかしい、ドアは開いていたはずだ。よしんば閉まっていたとしても、二三歩でぶつかるほど近くではなかったのに。
スマイリーが、そう思って後ろを振り返ると、いつになく真面目な顔をした教授が、ドアと自分の間に立ちはだかっていた。
「悪いことは言わん。さ、早く宝石を返せ」
教授はスマイリーの宝石を持っている方の腕を掴んだ。
しかし、スマイリーは当然、素直に石を渡そうはずもなく、
「やだって言ったらやだよっ!」と、ジタバタと暴れだした。
仕方なく教授は、スマイリーを羽交い締めにする。
「トッド、早く宝石を取り返せ!」
言われてトッドがスマイリーに近づくと、スマイリーは渾身の力でトッドの腹を蹴っ飛ばした。はずみでトッドはしりもちをついてしまう。
普段の気の弱いスマイリーからは考えられない行動だ。
信じられない展開に、教授は腕の力を一瞬緩めてしまった。スマイリーはそのスキを突いて教授の戒めから擦り抜けると、脱兎のごとく廊下へ飛び出して行った。
「教授、何やってんスか。ちゃんと捕まえてて下さいよ!」
「あ、すまん……」
二人は慌ててその後を追う。
ところが、追うのが一瞬遅れたためか、スマイリーの姿はどこにも見当たらない。
「なんて、逃げ足の速い奴だよ」
「あいつも泥棒のはしくれですからね」
「でも、まだ、外には出とらんはずだ。お前はあっちを探せ。ワシはガレージを見て来る」



「教授、部屋も台所も見ましたけどいませんよ。そっちはどうです?」
しばらく探して、二人はもとの居間で落ち合った。
「こっちもだ。ガレージはもちろん、書斎も寝室も、便所まで探したってのに、一体どこに雲隠れしおったんだ……」
「まさか、石を持ったまま家出しちまったんじゃ……」
「そんなわけあるか。お前じゃあるまいし。あいつは一人じゃ生活できないよ」
「生活力がなくて悪かったですね」
突然、廊下の奥からスマイリーの声が聞こえて来た。
二人は急いで廊下へ出る。
突き当たりにスマイリーが仁王立ちになっていた。
「スマイリー……。どこに隠れてたんだよ。心配したんだぞ」
トッドはそう言いながら、ゆっくりスマイリーに近づいて行った。が、捕まえようと手を伸ばすと、スルリとその手を擦り抜けられてしまった。
「そう簡単には捕まらないよ」と、スマイリーは不敵に笑った。
ノーザン・ライツの効力なのか、普段とはまるで別人に見える。
「いいかげんにしろっ!」
気の短い教授は、グイとスマイリーの腕を掴んでねじ上げ、上着のポケットやズボンのポケットを探った。
「痛いよっ!」
スマイリーは、教授を突き飛ばして逃れる。そして、
「犯罪界のナポレオンの癖に、力ずくなんて呆れちゃうね」と、蔑むように教授を見た。
あまりのことに、教授はもとよりトッドまでもが、ただ口をパクパクさせるばかりで、次の言葉が出て来ない。
「何やってるの二人とも。金魚みたいだよ。僕みたいな三下に二人掛かりでその程度だなんて、悪の天才もたいしたことないんだね」
またもや信じられない暴言をさらりと言って退けるスマイリー。ホームズにだって言われたことのない辛辣な言葉だ。しかも、漢字が多い。いつもの1.5倍くらい(当社比)。魅惑の宝石は、IQまで上げてくれるのか。どうせなら昨今流行のEQも上げてもらいたいものだ。
スマイリーごときに図星を突かれて、ぐうの音も出ない二人に更に彼は追い打ちを掛ける。
「だいたい、こんなに逃げ回ってるのに、いつまでもポケットなんかに隠してるわけないでしょ。教授、それでもホントに怪盗なの?」
「うるさい、うるさーいっ! 黙って聞いてりゃ、好き放題ぬかしおって。スマイリーのくせに生意気だぞ!」
いくらなんでも、いいかげんトサカに来た教授は、地団駄を踏んで怒鳴った。
「教授、落ち着いて。キレちまったらスマイリーの思うツボですよ。それより、宝石を探す方が先決です」
「流石はアニキ。お利口だね」
小馬鹿にしたように言われて、温厚(?)なトッドもムカッとした。が、お利口なので顔には出さない。
「スマイリー。それは俺たちに対する挑戦と思っていいんだよな」
トッドは口の端を少し上げて、スマイリーに負けないくらい、不敵に笑った。
思いも掛けないその台詞に、スマイリーは一瞬驚きはしたものの、次の瞬間にはうれしげな顔になり、
「そうだよ。二人が本当に倫敦を震撼させる大怪盗だって言うんなら、見事ノーザン・ライツを見つけてみなよ。ま、無理だと思うけどね」と、本気で挑戦状を叩き付けて来た。



「あんなこと言って、何か策はあるのかよ」
居間に戻って来た教授はそうトッドに尋ねると、嘆息をついてドッカと椅子に腰を降ろした。
「それを考えるのが教授の役目でしょう。悪の天才なんだから」
「じ、自分で挑戦受けといて、勝手なこと言うなよ。いくら天才だって、そうポンポン名案が浮かぶもんか」
「教授があんな石を盗むからこうなったんでしょう。ったく、見栄張るから……」
「どさくさに紛れて何か言ったな」
教授はギロリとトッドを睨む。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう。どうせ売れない石なんかどうでもいいけど、スマイリーをあのまんまにはしとけないんだし、なんとか石を捜し出さないと……。教授、石を処分したらスマイリーはもとに戻るんですよね」
「………………たぶんな」
「その間はなんなんですかー!」
「わ、ワシだって噂しか知らんよ」
「そんな無責任な」
そう言ってトッドは中を仰ぐと、教授と同じように大きな嘆息をついて、椅子に腰を降ろした。
二人はそのまま黙り込んでしまう。どうしたものか考えているのだ。
長い沈黙を最初に破ったのはトッドだった。
「掃除してみましょうか」
「掃除ぃ?」
教授は、素っ頓狂な声で聞き返した。
「ええ、どこに隠したのかわかんねーけど、外に持ち出した様子はないし、アジトん中にあることは確かですよ」
「そりゃそうだろうが、掃除なんてな……」
「物を探すんだったら、片付けるのが一番ですよ」
「理屈はそうだが、犯罪者としては、なーんか割り切れんものが……」
「そんなこと言って、掃除するの面倒臭いんでしょう」
「当たり前だ」
教授は意味もなく胸を張り、きっぱり言い切った。
「何、自慢げに言ってるんですか。他に方法ないんですから、掃除しますよ」



二人はまず、生活の基盤である台所を片付けることにした。
教授は絶対ここにはないと思っていたが、家事に関しては門外漢のため、すっかりトッドにイニシアチブを握られてしまい、逆らうことが出来なかったのだ。
流しに溜まった食器を洗わされている間に、
『こいつ、ひょっとして宝石なんかどうでもいいんじゃないか』と、思いはしたが、教授の軽く三倍の早さで、てきぱきと仕事をこなして行くトッドを見ていると、とても文句は言えない。
「教授、手抜かないで、ちゃんときれいに濯いで下さいよ。汚れが残ってるとアリがたかりますからね」
少しでもいいかげんにしようものならこの始末である。全くこれではどちらがボスなのか……。
やっと食器を洗い終わった教授がトッドの方を振り返ると、台所はまるでハドソン夫人が掃除した時のように、ピカピカになっていた。それを見ているとつい、あの時の思い出が込み上げて来て、
「ああ、なんか懐かしいよな……」と、しみじみ呟く。
と、既に隣の部屋の整理に取り掛かっていたトッドが、古新聞の束を抱えて台所へ戻って来た。
「何が懐かしいんですか?」
「い、いや、べつに……」
「懐かしいって言えば、この新聞。これ、教授が取っといたんですか?」
そう言われて新聞を覗き込む教授。
「あ、これ!」
一番上の新聞をひったくって記事に読み耽る。
新聞には「貨車が消えた」事件のことが載っていたのだ。それも、犯人を世紀の大魔術師などとかなり持ち上げて書いてある。
「もうこれ、捨てちゃいますよ」
残りの古新聞を紐で縛りながらトッドが言った。
「だめだ! ワシの輝かしい犯罪の歴史の記録なんだから、ワシが中身をチェックしてからにしろ」
「もう! そういうことは縛る前に言って下さいよ」
教授はぶつぶつ文句を言うトッドを無視して、新聞を一つ一つ入念にチェックした。
その間もトッドは仕事の手を休めず、どんどん部屋を片付けて行く。
そして、隣の部屋もあらかた片付いた頃、部屋に溜め込まれていた洗濯物を持って台所の前の廊下を通りかかると、
「クソーッ!」と言う、教授の雄叫びが聞こえて来た。
何事かと思って中に入ると、教授が最後の古新聞を手にわなわなと肩を震わせていた。
「どうかしたんスか?」
気になったトッドが横から記事を覗き込むと、中には我らが名探偵シャーロック・ホームズの大活躍のニュースが紙面いっぱいに報じられていた。
「ウーッ、ちくしょう! このーっ!」という教授の絶叫とともに、ビリビリに破かれた新聞が中を舞った。
「青二才の探偵め、ワシより大きく報道されおって!」
教授は床一面に散らばった新聞のかけらを踏みにじって悔しがった。しかし、そんな教授にトッドが掛けた言葉は、
「あーあ、せっかく掃除したのに何するんですか! まったく、教授はロクなことしないんだから……」という冷たい小言だった。
「何だよ、その言い方は。お前には思いやりってもんがないのか」と、教授はブーたれる。
「何が思いやりですか。さっきから働いてるのは俺だけじゃないですか。掃除する気がないんならそれでもいいけど、せめて散らかさないようにして下さいよ!」
シューン。
トッドの言うことは正論なので、小さくなるしかない教授だった。
「いいですか。俺は書斎を片付けて来ますから、それが終わるまでに、ちゃんとここをきれいにしといて下さいよ」
捨て台詞のようにそう言うと、トッドはスタスタと書斎の方へ行ってしまい、古新聞で再び散らかった台所には、教授一人だけが残された。
教授はトボトボと部屋の隅へ行くと、ホウキとチリトリを持って来て、渋々紙くずを掃き集めた。
「む、むなしい……。ワシは悪の天才なのに……。なんでこんなこと……」
どうも、何か大事なことを忘れているような気がする。
そう思ったが、サボって考え込んでいるヒマはない。台所と隣の部屋を片付けたスピードから考えて、後三十分もしないうちに、トッドは書斎から戻って来るだろう。それまでにここをきれいにしておかなければ、今度こそトッドは怒鳴り出すに違いない。別に怖いとは思わないが、怒らせると後々面倒だ。
そうこうしているうちに、なんとか古新聞はきれいに片付いた。
そこへちょうどトッドが戻って来た。なんとグッドタイミング!
「教授、書斎にもありませんでしたよ」
「何が?」
キョトンとして聞き返す教授。
「何って、ノーザン・ライツに決まってるでしょう」
「あ……」
やっと思い出した。そうだ、宝石を探すための掃除だったのだ。 「教授、まさか忘れてたってんじゃないでしょうね」
「わ、忘れてるわけないだろう! ちゃ、ちゃんと憶えとるわい」
「ホントかなあ……」
トッドは疑わしげな目で教授を見た。
「ま、いいですけどね。べつに。……で、どうしますか?」
「どうするって?」
「後は俺の部屋と教授の寝室と、スマイリーの部屋が残ってますけど……」
「ここまでやったんだから、そこも探すんだよ。決まっとるだろう」
「でも、もう夜中の二時ですよ。スマイリーも、たぶんもう寝てると思うし、後は明日にしませんか?」
宝石を取り戻したいのはやまやまだが、普段やり慣れない仕事でクタクタのトッドは、早くベッドに潜り込みたかった。
「……そうだな……そうするか……」
どうやら、その気持ちは教授も同じらしく、続きは明日の朝ということにして、二人は各々自分の部屋に戻って行った。



真夜三時過ぎ。
スマイリーの寝室で何かガサゴソと動くものがいる。
そいつは、クローゼットを開けて奥の衣類を引っ張り出したり、洗濯カゴをひっくり返して中身をぶちまけたりしていた。
「ちょっと、何やってるの?」
不審に思ったスマイリーは、ランプの明かりでそいつの顔を照らした。
「教授!?」
光を近づけられた教授は眩しそうに顔を背けた。
「呆れた……。夜這いでもするつもりだったの?」
「ばっバカ言うな! 誰がお前なんか襲うか。ワシゃそんなに飢えとらんわい!」
「そんなにムキにならなくても……。宝石探してたんだね。こんな夜中に」
そう言ってスマイリーは、クスリと笑った。
カチンと来たが、自分でも怪盗らしからぬ愚かな行為であることは重々承知していたので、反論出来ない。
「アニキが忍び込めって言ったの?」
「……ちがうよ……」
「じゃ、教授の意志で!?」
スマイリーは大袈裟に驚いて見せる。
「わ……悪いかよ」
教授は決まり悪そうにそっぽを向いたまま呟いた。
「べつに、悪くはないけど……随分、手を抜くんですね」
「え?」
「だって、こんなのまるで空き巣かコソドロみたいだよ。そんなに宝石が欲しいの?」
「う……いや……そ、それは……その……」
教授は言葉に詰まってしまった。自分でも、どうしてこんなことまでして取り戻したいのか、皆目見当がつかないのだ。
トッドの意見を尊重して、床についてはみたものの、どうにもスマイリーのことが気になって、まんじりとも出来ない。こうしている間に外へ持ち出されるのではないかと思うと、居ても立ってもいられなくなってしまい、気が付いたら忍び込んでいたというわけだ。
「ま、夜は泥棒のゴールデンタイムだからいいけどね。でも、なんでこの部屋にあると思ったの?」
呆れているとも馬鹿にしているともとれる表情で尋ねるスマイリーに、教授が答えようとした時、
「アジト中探しても出て来なかったからだよ」と、声がした。
振り返るとドアのところに、まだ作業着を着たままのトッドが立っていた。
「あの後、自分の部屋も片付けてみましたけど、やっぱり出て来ませんでしたよ」
なんと、トッドも教授と同じ気持ちだったようだ。
「ふーん、そういや二人して頑張って掃除してたっけ。ごくろうさん。良かったねえ、アジトきれいになって」
スマイリーはそう言ってフフンと鼻先で笑った。
ムッカー! 
ブッチン!
もう許せん。堪忍袋の緒が切れたっ!
拳を振り上げてスマイリーに殴り掛かろうとする教授を、すんでのところでトッドが押し止どめた。
「離せ! トッド、何故止める? お前は腹立たんのか!」
「俺だって頭に来てますよ。でも、殴っても何にも解決しないでしょう!」
「ありがと。アニキ。それがいいよ。殴ってどうにかしようなんて、悪の天才の名が廃るってもんだからね」
ノーザン・ライツの影響とは言え、いちいち勘に障る。
あの宝石に魅せられると、誰でもこうなってしまうのだろうか。そうだとしたら、なんと恐ろしい石であろう。
「スマイリー! お前もいいかげんにしろよ。もう、後はここしか探すとこはないんだから、みつかるのは時間の問題だぞ」
「そうだ。ワシらが優しく言っとるうちに、さっさと宝石を出せ」
「なに? それは降参ってこと? じゃ、僕の勝ちだね」
スマイリーは勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「バカ言ってんじゃないよ。勝ちとか負けとか身内で争ってどうすんだ。それに方法はどうあれ、ありかの見当はついたんだからワシの勝ちだよ」
「じゃあ、どこにあるのか言ってみなよ」
「この部屋にあるんだろうが」
「この部屋のどこさ?」
「「……」」
トッドも教授も答えられなかった。
悔しい……。このまま負けを認めなければならないのか。
「惜しいなあ……。いいとこまでは行ってんだけどね。やり方は稚拙だけど」
スマイリーはベッドの縁に座って足をブラブラさせながら、薄笑いの表情で二人を見上げて言った。絶対みつかるものかと言わんばかりに。
「アニキたちには気の毒だけど、掃除なんかいくらしたってノーザン・ライツはみつからないよ」
「なにぃ! 人がせっかく苦労して掃除したってのに、無駄だってのか」
「教授、掃除したのは俺です」
すかさずトッドのするどいツッコミが入った。
まったく、教授は何でも自分の手柄のように言うのだから、油断ならない。
しかし、それにしても、掃除をしても無駄とはどういうことだ? アジトの中にはないということなのか。いや、だが、スマイリーはこの部屋にあると睨んだことが惜しいと言った。では、この部屋を探せばノーザン・ライツは出て来るというのか。
「もう降参する?」
考え込み過ぎてわけがわからなくなって来た二人に、スマイリーはあの勘に障るくすくす笑いで水を向けた。
『クッソー、腹立つなー。石のせいだから仕方ねえけど……』
そう考えてトッドはハタとあることに思い当たった。
「教授、ノーザン・ライツの魔力ってどのくらいなんですか?」
「さあな? でも、魔力っていうほどは強くないだろ。べつに呪いの宝石ってわけじゃないんだから」
「やっぱりね……謎はすべてとけた」
キラーン。
トッドの瞳が金田一少年のごとく鋭く光った。
「謎が解けたって、どういうことだよ」
「この部屋に石があるってのが、当たらずとも遠からず、そして、掃除をしても出て来ないって言うのなら、隠し場所は一つしかないですよ」
「ええ?」
教授はまだよくわからないらしく、訝しげな表情をしている。
しかし、スマイリーの顔からはさっきまでの薄ら笑いが消え、やや動揺さえしていた。
「ふふふふふ……スマイリー、やっぱり俺たちの勝ちだな」
「トッド、勿体つけずに早く言えよ」
「ノーザン・ライツのありかは……」
トッドは充分ためてから、
「そこだーっ!」と、スマイリーを指さした。
「何言っとるんだ? スマイリーは今パジャマだぞ。隠すとこなんか何処にも……」
そこまで言って、やっと教授にも真実がわかった。
「腹の中か!?」



「な……何する気……」
脅えた顔をするスマイリーに、トッドと教授がじわじわとにじり寄って行く。
スマイリーは、ベッドから立ち上がって、少しずつドアの方へと後ずさった。
「外へ出すな!」
「はい!」
トッドは猛烈なスピードで、ドアまで行き扉の前に立ちはだかった。
「あ……」
退路を塞がれ、困惑するスマイリー。
「捕まえたっ!」と、教授がスマイリーを後ろから抱きすくめた。
「やあん、離してよぉ」
じたばたと抗うスマイリーを逃すまいと、教授はさらに腕に力を込めた。
「トッド、今のうちだ、早く!」
トッドはスマイリーに近づくと、パジャマの前ボタンをはずし始めた。
「ちょ、ちょっと……何なのぉ。……ああん、やめてぇ、くすぐったいよぉ」
「動くからだよ。じっとしてろよ!」
「トッド、そんなこといいから、早くやらんか!」
「あ、はいはい。スマイリー、口をあけな」
トッドはスマイリーの顎を掴んで、無理矢理口を開かせようとした。
しかし、スマイリーは、歯を食いしばっている。
仕方がないので鼻を摘まむトッド。
すると、息苦しくなったらしく、三十秒もしないうちにスマイリーは陥落してしまった。
開かれた口の中にトッドは指を突っ込んだ。
「何やってんだよ、もっと奥まで入れんか」と、教授はじれったそうに発破を掛ける。
「やだ……やめ……うっ……く、苦しいよ、やだあ」
「苦しいのは最初だけだよ、出したらすぐに楽になるから」と、妖しくも優しく囁くトッド。
だが、スマイリーが抵抗するので、なかなか思うように指が喉まで届かない。
「もう! ぐすぐすすんなよ。ワシが変わる! トッド、お前スマイリーを押さえてろ」
今度はトッドに代わって教授がスマイリーに指を突っ込んだ。
「うぐっ。あが……あ……」
さっきより少しは奥まで入ったらしい。
スマイリーの口の端から唾液がダラダラと流れ出る。
しかし、今一歩というところで、どうしても目的は達成出来ない。
「駄目だ……もう限界だ……つ、疲れて来た……」
年のせいか、教授はハアハアと肩で息をしている。
「もっかい俺も突っ込みますよ」と、トッドは、片手でスマイリーの体を押さえたまま、あいている方の手を口に入れようとした。
「む、無理だよ……そんなに入んないよっ!」
スマイリーは押さえる力が半分になったスキに、体を左右に揺すぶって、異物を吐き出し戒めから逃れた。が、疲れていたのは教授だけではないらしく、二三歩後ろによろめくと、ぺたりと床に座り込んでしまった。
「……やっぱ、吐かせるのは無理みたいっスね」
「ああ。飲み込んでから時間が経っとるからな」
トッドと教授は、スマイリーを見下ろしながら、どうしたものかと考えた。
と、教授が何か思いついたらしい。
「上からが駄目なら下から出させよう。トッド、あれ持って来い。救急箱に入ってたろう」
「あれ? あれって、まさか……」
トッドはおずおずと尋ねた。
スマイリーは脅えきった目で、二人を見上げている。
「そう、浣腸だよ」
教授は、なんでもないことのようにさらりと答える。
「「浣腸ーっ!」」
トッドとスマイリーは同時に絶叫した。
「教授、いくらなんでも、それはマズいでしょう」と、トッドは渋い顔をした。
「なんでだよ?」
「いや、だって、この小説は一応健全ホームズサークルの本に載るんだし……」
「浣腸のどこが不健全なんだよ。普通に薬局に売ってるもんだぞ」
「でも、コン××ムも薬局で簡単に手に入りますよ」
「しかし、富山の置き薬の中にはない」
「だけど、うちの救急箱には入ってません?」
「シーッ!」
教授は慌ててトッドの口を塞いだ。
「ワシのストイックなイメージを壊すようなこと言うなよ。きっと今、五十人くらいの読者が、佐々木にカミソリ送る準備しとるぞ」
「そんなには、いないでしょう」
「わからんぞー。ホームズファンは下ネタには厳しいからな」
「いや、そうでなくて、佐々木の読者が五十人もは、いないってことっスよ」
大きなお世話だ! うちの読者は少数精鋭、きっとエロネタにも寛大な人が多いと信じているよ。
「とにかく、浣腸はやめましょう。今はこんな生意気な奴ですけど、元は素直で可愛い子なんですから、人間としての尊厳は守ってやりましょうよ」
それもまた、片寄った意見だ。
浣腸が人間の尊厳を云々するものだというのなら、妊婦さんは一体どうすればいいと言うのだ。
そうは思ったが、考えてみればスマイリーの肛門に浣腸を突っ込むのは、流石に歓んでやりたいようなことではない。
教授は、仕方なく浣腸案は引っ込めることにした。
「それじゃ、どうするんだよ」
「下から出すってのは良い方法だと思いますよ」
「浣腸は駄目なんだろ」
「他にも手はありますよ」
「下剤か」
サーッ。
スマイリーの顔面が蒼白になる。
「ぼ、僕、お通じはちゃんと毎日あるよ。そんなの飲まなくったって出るよぉ」
スマイリーが涙ながらに哀願したが、
「俺、取って来ますよ」と、トッドはそれを全く無視して出て行った。



しばらくするとトッドが瓶を二つ持って戻って来た。
一つは空っぽ、もう一つは白い液体がなみなみと注がれていた。
「下剤は切れてました」
ホッとスマイリーは胸を撫で下ろす。
「でも、代わりになるもん持って来ましたよ」
トッドは白い液体の入った方の瓶を、スマイリーの顔の前に突き出した。
ぷーんと甘酸っぱい匂いが鼻孔をくすぐった。
「三日前の牛乳。常温で放置してあったやつだから、今がちょうど飲みごろだぜ」
スマイリーは情けない顔をして、イヤイヤをする。
しかし、二人は、容赦なくそれを飲ませに掛かった。
「いやーっ!」
スマイリーは突然立ち上がって、そのまま部屋の外へ逃げ出した。
あんなもの飲まされてたまるものか。それなら指を突っ込まれてゲロした方がまだマシというものだ。
夜中というのに、ドタバタと追いかけっこが繰り広げられる。
昼間、ノーザン・ライツを隠したときよりも、必死で逃げ回るスマイリー。そりゃあ、そうだ。命とまでは行かないまでも、それに近いものが懸かっているのだから。
一時間近く三人はアジト中を走り回った。
それだけ運動すると、いかなバイタリティが自慢のモリアーティ一味といえども、だんだんヘロヘロになって来た。
やがて、年の順に脱落して行く。
三人は、それぞれバラバラのところでへたり込んで、やがて、すやすやと寝息をたて始めた。



翌朝。
一番最初に目を覚ましたのはスマイリーだった。
朦朧とした意識のまま、ヨロヨロと立ち上がると、そのままトイレに直行した。
バタンとドアが閉まる。
その音でトッドが目を覚ました。
「あっ! スマイリー、駄目だー!」
慌ててトッドはトイレの前へ走って行った。
その声で教授も目を覚ました。
「どうしたんだ、トッド」
押っ取り刀で最後にやって来た教授が、ぼんやり尋ねる。
「あ、教授、スマイリーが今、中に」
「ナニ!」
教授は血相を変えて、トイレのドアをドンドン叩いた。
「スマイリー、まだするな。今、オマル持って来るから、するんならそっちでしろー!」
「えー? なに? よく聞こえないよ」
プリプリ、プー。ボットン。
「「ああああああ〜」」
トッドと教授の二人は、情けない声を上げて、その場に力無く崩折れた。
少しして、
「あー、すっきりした」と、スマイリーはニコニコしながら出て来る。
二人はスマイリーを押しのけて、便器の側へ行き、中を覗き込んだ。
底の方に何かキラキラ輝くものが見える。
「ああ……ノーザン・ライツが……」
教授は便壷の中に腕を突っ込もうとした。だが、
「やめて下さいっ!」と、トッドに肩を掴んで止められてしまった。
「犯罪界のナポレオンがみっともないことしないで下さいよ」
そんなことをしているうちに、ノーザン・ライツはその美しい肢体を、プクプクと汚物の中に沈めて行き、やがて全く見えなくなってしまった。
「あーっ! ワシの戦利品が……」
教授はガックリと肩を落とした。
しかし、不思議とトッドは晴れやかな顔をしている。そして、言った。
「まあ、良いじゃないですか。これでスマイリーももとに戻るだろうし」
「でも、宝石は沈んぢまったぞ」
「どうせ、金にはならない石でしょ。この方が良かったんですよ」
「なんで?」
「だって、これで教授の勝ちですよ」
「勝ち? スマイリーに勝っても……」
「違いますよ、ホームズに勝ったんです」
いきなりわけのわからないことを言うトッドに、教授は怪訝な顔をした。
「わかりませんか? これで、誰もノーザン・ライツを取り戻せなくなったんですよ。あのホームズでさえ」
なるほど。そのとおりだ。
いかな名探偵と言えども、よもや便壷の中に宝石が隠されていようとは思うまい。よしんば気が付いたとしても、散らかったら引っ越すつもりで造ったアジトのトイレだ。糞尿を溜めることは出来ても、くみ取ることは出来ない。取り戻すことは不可能だろう。
もっとも、そのせいで、教授も宝石を拾うことが出来ないのだが。
「ホームズに勝った……」
教授はあまり実感なさげに呟く。
「初白星ですよ。もっと喜んで下さい」
「うーん、なんか、釈然とせんな……」
教授はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げ、
「まあ、なんでもいい。とにかく、ワシゃホームズに勝ったんだ。そうとも、ワシの勝ちだ! ワーッハハハハハハ!」と、高らかに悪党笑いをした。
だか、どこか淋しそうに見えるのは、きっと気のせいだろう。
なにはともあれ、おめでとう、モリアーティ教授。
どんな形であれ、勝ちは勝ち。
ファンとしては嬉しいことである。
きっと、教授は、これを糧に今後尚一層の活躍をしてくれることだろう。
では、今回は勝った気分に酔っているうちにお別れすることにしよう。
次回の教授の冒険をお楽しみに。




Fin



<<戻る

inserted by FC2 system