ギシギシとデスクの軋む音が響く。
薄暗い執務室の中、白と黒の二つの影が重なって揺れていた。
「……くっ……はぁ……」
くぐもった低い呻きと荒い息。
白い影の被るクフィーヤが、黒い影の苦悶の表情を覆い隠す。
見えているのはただ黒い影の銜える葉巻の紅い火のみ。
二人以外、誰もいないこの部屋にありながら、神にさえもその顔は見せぬというのか。
ポトリと一つ、葉巻の灰がデスクに落ちた。
それは炎になる前に命を終えて、机の揺れに四散した。
「……こっ……こんなところで催しおって……」
白い影の腕の中、黒い影の男が忌々しげに呟いた。
「君なら、やめさせることも出来ただろう。私を殺してでも」
白い影の男は、後ろから腰を抱いた手を滑らせて、形の良い引き締まった大臀筋を撫でながら耳元で囁いた。
「……う……内輪もめは御法度……だっ」
語尾の母音のせいで開かれた唇から葉巻が落ちる。
白い男は右手を伸ばしてそれを拾い、自らの唇に銜え言った。
「そういうことにしておこうか」
一服吸って紫煙を吐き出すと、机でそれを揉み消して、ずれた腰を抱え直し、ひときわ強く揺さぶった。
「っ……あ……」
突然の衝撃に上がりそうになった声を飲み込んで、黒の男は別の言葉を唇に乗せる。
「せ、セルバンテス……貴様……人の煙草を……勝手に……」
「……くっ……ははははは……あーっははははは! すごい、素敵だ。最高だよ、アルベルト」
状況にそぐわぬ言い草に、セルバンテスと呼ばれたクフィーヤの白い影は身を離し、腹を抱えて笑い出した。
いくら自分が間の抜けたことを言ったとはいえ、あまりといえばあまりにも失敬な態度に黒の男──悪の秘密結社BF団は十傑集が一人、衝撃のアルベルトの堪忍袋は緒が切れた。
「笑うなっ!!」
自由になった体を翻し、笑う男に右手をかざす。
手のひらの中心に紅い光が現れたかと思うと、それを軸にして激しい竜巻が湧き上がり、セルバンテスめがけて一直線に衝撃の波が放たれた。
「おおっと、危ない」
ダンスのステップでも踏むようにセルバンテスは軽やかに体をかわした。
ダンッ!!
と鈍い音を立てて後ろの壁に円形にヒビが入る。
命中していたらおそらく命はなかっただろう。
だがセルバンテスは無傷で立っている。
僅かに逃げ遅れたクフィーヤの裾はズタズタに引き裂かれてはいたが。
「乱暴だなあ……」
言って彼は自分の背後を振り返る。そして。
「ああっっ!?」
半ば悲鳴に近い頓狂な声を上げ、たった今破壊された壁へ走り寄った。
「ひ……酷い……人の部屋だと思って……」
傷ついた壁に、愛しい者への愛撫のような頬擦りを送る。
「可哀そぉに……痛かったよねぇ……」
同情心でも買おうというのか、わざとらしく鼻まで啜り上げる。
とても、今し方、命を失いかけた男とは思えない。
すっかり悲劇の主人公の自己陶酔に浸ってしまっている相方を、アルベルトは乱れた着衣を直す気にもなれないほど、げんなりして見つめていた。
それに気付いているのか、セルバンテスは壁に頬を付けたままブツブツと呟いている。
「せっかく格好良く決めようと思ってたのに……ワイルドでダンディでバイオレンスチックな昼下がりの情事みたいにさぁ」
「どんなだっっ!!」
くだらぬ愚痴に思わずツッコミを入れてしまうのは、付き合いが長いせいか、ノセられやすい性格のためか。
しかし、確かに、今の一連の事故(?)で、今までのハードボイルドな雰囲気は一気に払拭されてしまっていた。
ついでに、せっかくの艶めかしげなムードさえも。
だが、セルバンテスは、それでくじけるような甘い人間ではなかった。
はたと何か思いついて、ぽんと拳でもう片方の手のひらを叩く。
「そうか! 壊したのは君だから……」
言いながらにこやかに振り向いて言葉を続ける。
「この償いは、身体で払ってもらえば良いんだ〜」
アルベルトの頬がぴくりと引きつった。
「……もう一発、お見舞いされたいか」
地鳴りのような低い声が響く。
十傑集で唯一表の顔、オイルダラーという身分を持つ眩惑のセルバンテスでなければ、身も竦み上がらんばかりの恐ろしさで。
アルベルトの右手が再び紅い灯を結ぶ前に、セルバンテスは彼を仰向けにデスクに押し倒し、その両手を片手で頭上に戒めた。
「癖の悪い手だねぇ。もう、おいたはしないでよ。僕は君に能力は使いたくないんだからさ」
言って、薄いオレンジのゴーグルの向こうから、チャーミングなウィンクを送る。
彼は懲りるということを全く知らない男のようだ。
そのことはアルベルトも良く理解していた。
デスクに縫いつけられた手をふりほどくのは簡単だ。
しかし、そうしたところで何が変わるというのか。
アルベルトは精一杯の厭味を込めて、深い深い溜息を吐くと、諦めたように全身の力を抜いた。
「なんだ……意外と素直なんだねぇ」
セルバンテスは独り言のようにそう感想を述べる。
そして、アルベルトを押さえていた手を緩め、手首へ、腕へ、肘へ、上腕部へと滑らせて、肩を通ってやがて喉元へと辿り着かせた。
それから、黒々とした髭を蓄えた顎を無造作に掴む。
そうして、彼を強く睨み付ける血の色の瞳を覗き込むように顔を近づけた。
アルカイックにつり上がったままの口から赤い舌を覗かせて、したり顔で髭の生え際をべろりと舐める。
と、
「っ!」
今までおとなしくされるがままになっていたアルベルトが、やにわに体を起こし、自由を得た手でセルバンテスのゴーグルを乱暴に剥ぎ取った。
勢いで今まで彼の顔の半分を隠していたクフィーヤまでも脱げ落ちて、脱色を施した淡い狐色の髪があらわになった。
「あっ!」
ほとんど無意識にセルバンテスは片手で顔を覆った。
アルベルトはその腕を掴んで顔から離すと、そのまま勢いよく身体を引き寄せて噛みつくようにくちづけた。
不意のことに閉じられたままの唇を、無理矢理舌でこじ開けてそれを中にねじ込んだ。
侵入を果たした内部を彼の性格そのままに傍若無人に掻き回し、絡め取った相手の舌を強く吸い上げた。
「んっ!」
塞がれたままのセルバンテスの唇から、微かに抗議の声が漏れる。
それでもかまわず、アルベルトは中を蹂躙し続けた。
「んー、んー、んー!」
掴んでいない方の手で肩を押されてやっと、アルベルトは唇を解放してやった。
「もう! 窒息するよっ!!」
「くちづけるなら眼鏡くらい外せ!!」
言葉を発したのは二人同時だった。
「……あ……ごめん……」
まるで人が変わったかのように素直に詫びたのはセルバンテスの方だった。
そして何やら決まり悪げに瞼を撫でる。
その指の隙間から翠に輝く瞳が覗いている。
アラビア人のセルバンテスの瞳は黒いはずである。
だが、十傑集としての能力を使うときや、精神が高揚したときは、今のように翡翠に輝くことがある。
他人の深層意識を操る技を得意とするセルバンテスにとって、この肉体的変化を知られることは致命傷といえる。
屋内にいながらゴーグルを外さないのはその欠点を覆い隠す手段でもあった。
「……ここには、俺と貴様しかおらん。気にするな」
滅多にない穏やかな口調でアルベルトは言った。
「それに……その色、俺は嫌いではないぞ」
アルベルトしか知らない事実。
それを隠したがっている友への思いやりからの言葉だった。
しかし、それが失言だったと気が付くのに時間はかからなかった。
「えっ!? ホント?」
慰めの言葉を聞いた瞬間、セルバンテスの顔がパァッと輝いて、両手を広げアルベルトにタックル……もとい、抱きついてきたのだ。
「ねえ、今の、もう一回言ってくれないかい」
今や何の障害物もなくなった顔を、アルベルトの髭面に擦り寄せてくる。
『やられたっ!』
アルベルトはそう思ったが、最早後の祭りだった。
これでは何をどう言い繕っても、奴を喜ばせる結果になるだけだ。
結局、初めから勝負になどならなかったのだ。
強がろうが意地を張ろうが、この底意地の悪い男を憎からず思っていることは、眩惑のセルバンテスにはお見通しだったのだ。
「くっ……ふふふ……ははははは……わははははは……」
悟ってしまうと、自然に笑いがこみ上げてきた。
突然の豹変を、ただ呆然と見つめる友の首を抱いて、アルベルトはくるりと体を入れ替え、自らの下に組み敷いた。
「え?」
小さく驚きの声を上げるのも無視して、未だ少しも乱れぬ襟元を、衣類の上からゆっくり撫でる。
黒いネクタイの結び目に指を入れると、シュルリと音を立てて一気にほどく。その力で、髑髏のタイピンがはじけ飛んだ。
それをセルバンテスは目で追った。
床に落ちるのを確認すると、
「あー……、お気に入りなのに……」と情けない声で抗議した。
だが、アルベルトは、それにも答えず、今度は趣味の悪い真っ赤なワイシャツのボタンを外していく。
ジャケットのボタンも外して、アラブ人にしては白い肌が現れると、迷いなくその厚い胸板に唇をつけた。
「ひゃっ!」
慣れない感触だったのか、セルバンテスが奇妙な声を上げる。
そしてそれは、アルベルトの気をよくさせるに充分だった。
アルベルトは嬉々としてそこに舌を這わせ始めた。
獲物をしとめた肉食獣がその味を確かめるかのような仕草で。
紅く濡れた舌は何かを探るように蠢く。
光る唾液の軌跡を残しながら左胸へ移動する。
命の証を刻む場所を目指して。
皮膚一枚隔てて響くリズムに満足し、その頂にある淡い色の突起を口に含んだ。
「あっ!」
アルベルトの頭上で、短い悲鳴が聞こえた。高く甘い艶を含んだ声だった。
唇をそこから離さぬまま、上目づかいに見ると、片手で顔を覆って、唇を噛むセルバンテスが視界に入った。
口の端に伸びる長い髭が僅かに震えて、彼が何かに耐えていることを伝えてくる。
視線はそれを捉えたままで、アルベルトは口の中のものを舌先で転がした。
すると、びくんとセルバンテスの身体が痙攣する。
それと同時に
「アルベルトっ!」と、叱責にも似た声が上がった。
「うるさい、だまれ」
野蛮な言葉とは裏腹に、語調には笑みがまじっていた。
「だ、だってさ……」
セルバンテスは口の中でブツブツと泣き言を呟く。
「いいから、まかせろ。悪いようにはせん」
「ええっ!? それはどういう意……ああっ!!」
その答えは聞くまでもなかった。
セルバンテスの、力を失って項垂れていた雄の印を、熱く柔らかい潤いが包み込んだのだ。
「う、うそぉ〜!! な、なんで!?」
セルバンテスは悦びと戸惑いと驚愕がないまぜになった絶叫を上げる。
アルベルトにとって、それは予想どおりの反応だった。
セルバンテスとは何度も褥をともにしたが、彼は一度もこれを要求したことがない。したがって、二人にはこの行為は、正に初体験だったのだ。
セルバンテスは慌てて上半身を起こし、アルベルトの頭に手をやって、抵抗を試みる。
「ちょっ……アル……そんな……」
しかし、流石のセルバンテスも、訪れる快楽には逆らえぬのか、それはただ形だけのものとなり果てた。
アルベルトの口腔内に収まった物体は、あっという間に臨戦態勢を整える。
膨張し銜えきれなくなると、アルベルトはいったん唇を離し、右手を添えて、屹立するそれの裏側を、根本から先端にかけて舌の腹でゆっくり舐め上げた。
「っ!」
声にならない呻きを漏らし、セルバンテスの両手がアルベルトの髪をくしゃりと掴む。
それがもう抵抗ではないことを知っているアルベルトは、今度は括れた部分までだけを口に含み、唇だけで甘く噛んだ。
「ふ……ぁ……」
聞こえる声の甘さがアルベルトを愉しませた。
ジリジリともったいつけて唇を上下に滑らせる。
舌はぴったりと膨れゆくそれにあてがったまま。
「は……あ……う……」
口の奥に形容しがたい苦味が広がって、セルバンテスの快感の深さを教える。
アルベルトは胸の奥底……いや、躯のもっと深い場所から、得体の知れぬ歓びが姿を表すのを感じ、自分が目の前の忌々しい男より昂揚していることを知る。
それはアルベルトをより大胆に変貌させる。
俯いたままでセルバンテスからは見ることの出来ない緋色の双眸が、獲物を屠るときと同じ焔を灯していることは、二人のどちらも気付いていない。
アルベルトは、可能なかぎり深くまでセルバンテスを飲み込むと、やや強く吸い上げた。
「やっ……やめ……アル……あっ!」
ドクドクと脈打って大きくなっていくものは、アルベルトの息を苦しくさせたが、そんなものは、この例えようもない愉しさの前では、なんの障害でもなかった。
アルベルトは敵に更に追い打ちをかけるように、そっと歯を立てて扱いてやった。
最早、反り返らんばかりに存在を主張するものを含み続けるのは困難になった。
だんだん顎が疲れてきたアルベルトがそこから口を離すと、セルバンテスの唇は、
「あっ、ああ……」と、別れを惜しむ喘ぎを紡いだ。
その反応にアルベルトは、くくと忍び笑いを漏らす。
要求に応えるのはやぶさかではない。
だが、銜えてやるのはもう無理だった。
だから、代わりに、舌先を尖らせて、涙を溢れさせる鈴口を突くように舐めてやった。
「アル……アル……」
譫言のように名を呼ぶ友を仰ぎ見ると、その顔はアルベルトの想像を絶するなまめかしさに変容していた。
寄せられた眉、上気する頬、薄く開かれ濡れる唇、そして何より、焦点の合わぬ両眼の吸い込まれるような緑の輝き。
それらすべてが、彼の人を、アルベルトの一度も見たことのない表情にさせていた。
胸の内に昏くわだかまり燻り続けていた欲が俄に燃え上がり、今やはっきりとした形を持ってアルベルトを突き動かした。
悦びの丈を伝える場所から湧き出す樹液を、あますことなく拭い取り、それでも足りぬと、舌先で窪みをこじ開けた。
「ダメっ、アル……もう……」
限界を告げる声と共に、ジリと僅かに腰が退かれる。それを逃すまいと追いかけた刹那、
「あっ!!」と短い嬌声が上がり、白い飛沫が飛び散った。
「うっ」
低く呻いたのはアルベルトだった。
「ああーっ、アルベルトっ、ごめん、ごめんよっ!」
セルバンテスは今にも泣き出しそうな顔で平謝りに謝った。
そして、仏頂面で黙りこくるアルベルトの頬に慌てて指を這わせる。その顔を汚すものを拭うために。
「悪かった、アルベルト。だけど、これは事故なんだー!!」
「あたりまえだ。わざとなら、殺す!」
物騒な台詞だが、その顔は笑っていた。
「それに……そうさせたのは俺だ……」
言ってアルベルトはニヤリと笑い、頬を滑るセルバンテスの手を右手で包み込み、その指を濡らす欲の残滓を舐め取った。
それは眩惑のセルバンテスをしてさえ、予想のつかないことだったらしく、
「わーっ! アルっ!? どどどどどうしちゃったの? 今日はすごく優しいよ?」と、激しい動揺の台詞を吐かせた。
それにアルベルトはにべもなく答える。
「ふん、俺はいつでも優しかろう? 貴様には」
言い終わるとアルベルトは、再び指を口に含み、丹念にしゃぶり始めた。
その仕草は、先ほどまでの情交を喚起させる。
否、完全に向き合ったままなため、お互いの顔がはっきり見える分だけ、今の方が淫猥でさえあった。
白い歯の間からときおり覗く紅い舌が、例えようもなく淫らな表情を作り出す。
セルバンテスは思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
「さ、誘ってるの?」
セルバンテスはおそるおそる訊ねる。
「他にどんな意味がある?」
当然だと言わんばかりにアルベルトは答えた。
「貴様にはさっき、相当イイ思いをさせてやったつもりだが?」
そう言ってアルベルトは、セルバンテスの指の股をねっとりと舐める。
言外の意味を行為で伝えるように。
これが判らぬようでは、眩惑の名を冠する資格はない。
セルバンテスはアルベルトの腕を取って優しく引き寄せ、背中から抱きすくめると、
「わかった……全霊をそそがせてもらうよ」と、耳元で囁いた。
そして、ずっと寛がされたままだったワイシャツの隙間から、するりと手を滑り込ませ、直接地肌を弄ぐった。
ところが、
「待て」と、アルベルトがその手首を掴んだ。
「え? なに? またおあずけ?」
セルバンテスはあからさまに不満な声で言った。
「違う……」
それにアルベルトはクスリと笑って答えると、擦り寄せられていた顔を片手で押し退け、不作法な腕は掴んだまま、器用に躯を反転させ、
「……顔が見たい」と告げる。
と、驚いたように、セルバンテスの裸眼が見開かれた。
その奥の翠の炎を直視したまま、アルベルトは言葉を続けた。
十傑集かくあるべしという不敵な笑みを浮かべて。
「さっきの貴様の顔は、ずいぶん見物だったからな」
「……弱ったな……君には見られたくないものばかり見られてしまう……」
セルバンテスは照れくさそうにアルベルトから視線を逸らした。
しかしすぐ気を取り直し、頬にあてがわれたままの手を優しく握る。
それから、もう片方の手で、アルベルトの腰を抱いて引き寄せ唇を重ねた。
触れると同時に侵入してきたのはアルベルトの舌だった。
セルバンテスは、今にも暴れ出しそうなそいつを宥めるように絡め取り封じてしまうと、壊れ物を扱う細心さであちら側のテリトリーへ進んでゆく。
入口に辿り着いてもけして強引には中へ入ろうとしない。
舌先で柔らかく歯茎を撫で、歯列のひとつひとつを丁寧にたどるばかりである。
焦れたアルベルトの舌が再び蠢き出してやっと、内部の侵犯を開始した。
それでも、動きの穏やかさには変わりはなかった。
ゆるゆると舌の表面を行きつ戻りつするだけで、決定的な刺激はあたえてこない。
もどかしさに耐えきれなくなったアルベルトが、それをきつく吸い上げると、たちまち逃げて唇ごと遠くへ離れてしまった。
「あ……」
一瞬、それを追いかけそうになり、アルベルトは慌てて唇を引き結ぶ。
そうなって初めて彼は、セルバンテスの後ろの景色が天井になっていることに気づいた。
見下ろす顔は、勝利の笑みに満ちていた。
自分でもまったく知らぬ間にこうなってしまったことにアルベルトは内心舌打ちをした。
だが、笑みの向こうに隠された情欲の火に、敗北感は払拭される。
──ふ……飢えているのはどちらも同じか……。
何に対しての渇望なのか。肉の悦びか、血を流すことか。
そんなことは、今のアルベルトにはもう、どうでも良いことだった。
やがて訪れるであろうよく知る快楽への期待が、見栄も照らいも羞恥心も、彼岸の彼方へ押し流す。
アルベルトはセルバンテスの首に手を回し、デスクに片手をついて上半身を少しだけ起こすと、扇情的に言った。
「愉しませろよ」
「Ich verstehe. Herr Albert」
承諾の台詞とともにセルバンテスの手がシャツを脱がせようと動く。
アルベルトはついた手を上げ、袖を抜くのに協力した。
裸になった半身をセルバンテスの大きな手が慈しむように撫でまわす。
首を、肩を、鎖骨を、胸板を滑り降り、脇腹に触れられて、アルベルトは身を竦ませた。
弱い場所をみつけた手は、悦びを隠しもせずそこばかりを撫でさする。
腰骨の上、躯の一番括れた部分を手のひらが通過するたび、アルベルトは眉を寄せ微かに体を震わせた。
もう羽織っているだけになっているセルバンテスの真紅のシャツを、首に回していた手でギュッと掴んで、躯の疼きをやり過ごす。
触れるだけではもの足りなくなった手に不意に腰を揉むように掴まれた。
「はっ、あ……」
少しだけ背中の方へはみ出した指先に、アルベルト自身も知らない快楽のつぼを刺激され、殺しきれない吐息が吐き出された。
そのことに驚きを憶えたのは、アルベルトだけではなかったようだ。
一瞬、セルバンテスの顔が喜色ばむ。
しかしすぐに真顔にかえり、アルベルトの逆鱗に触れることはなかった。
指先は暫くそこを堪能した後、滑るように更に下へと降りていった。
だがすぐに布の砦に阻まれる。
「……アルベルト……」
少し困ったような声で名を呼ばれ、相手の求めを理解した。
アルベルトはゆっくり片膝を上げて、土足の足をセルバンテスに突きつけた。
「まず、靴を脱がせろ」
媚態を含んだ仕草で命ずる。
軽く爪先でセルバンテスの胸をこづいて。
それにセルバンテスは驚くどころか破顔して従う。
「かしこまりました。ミスター」
うやうやしく礼まですると、アルベルトの前に跪く。
ところが、靴を脱がせるためにズボンの裾をたくし上げたところで手が止まった。
「どうした?」
質問にも答えず、セルバンテスはそこを凝視して固まっていた。
それからやにわに、
「黒じゃなーいっ!」と叫んで立ち上がる。
そして、アルベルトの両サイドにバンっ! と手をつき身を乗り出し、鼻先まで顔を近づけ問い返す。
「なんでっ!?」
「な……何でと言われても……」
常にない勢いに、流石のアルベルトもたじろいだ。
じわりとアルベルトをみつめる瞳が涙に潤んでゆく。
「せ、セルバ……」
「酷い! すみれ色のソックスなんてあんまりだぁ〜」
両手で顔を覆いしゃがみ込んで、セルバンテスはさめざめと泣き始めた。
一体何が気に入らないのか、アルベルトには皆目見当が付かなかった。
あげく泣き出してしまうなど、理解の範疇の外である。
泣かれるのは困る。女でも子供でも。
ましてやそれが男、しかも盟友と認めた者であればなおさらだ。
人前で涙を見せるという行為は、アルベルトの行動理念の中には存在しない。
だから、こんなときどうするのが良いのかというマニュアルもないに等しいのだ。
からかわれたり、馬鹿にされたりしたのなら、衝撃波の一つもお見舞いしてやるところなのだが、こうまで本気で泣かれてしまっては……。
アルベルトはただ黙ってセルバンテスをみつめ続けた。
──靴下が紫ではいかんのか……?
と、泣き伏していたセルバンテスが、やおら立ち上がって靴を脱ぎ始めた。
真剣な表情で両足の靴を脱いでしまうと、それを放り投げ、今度は座り込んで、ソックスを脱ぎだした。
──なんだ? 何が始まるんだ?
もうアルベルトには異世界の出来事としか感じられない。
すっかり裸足になってしまうとセルバンテスは、脱いだ黒靴下を持ったまま、再びアルベルトの前に跪いた。
靴に手がかかり、ゆっくり脱がされる。
それから、件のすみれ色のソックスをずらされた。
左手でふくらはぎを支え、右手の指で靴下を引き下ろされる。
ゴムの部分が足首を通って、くるぶし、踵を越え、やがて爪先まで剥き出しにされた。
無心で自分を裸足にする姿は、何やら淫らな光景で、アルベルトに最初の空気を思い出させた。
本格的に欲に灯がともりそうになった刹那、裸足の指の股をペロリと舐められる。
「っ!」
背筋を駆け上る快感にアルベルトは息を飲む。
「このままも捨て難いんだけど、セオリーだからね」
セルバンテスが何を言っているのかアルベルトが理解する前に、足は舌から解放され、何か生暖かい物を被せられた。
「! なんだ!?」
不意の不快感にその場所を凝視すると、
「貴様っ! これは貴様の……」
「うん。今これしかないからねぇ」
先程までセルバンテスの足を包んでいた黒靴下を履かされていた。
ふくらはぎの中腹までを覆う黒いシルク。外側の髑髏のワンポイントが目に眩しい。眩惑のセルバンテスが表社会で社長業を営む、株式会社スカールの製品だ。
アルベルトが慌ててそれを脱ごうとすると、強い力で手首を掴まれた。
「ダメ」
「なんのつもりだっ!? 貴様」
怒りをあらわにして怒鳴るアルベルトに、セルバンテスは
「だって、君が悪いんだろう」と、叱られる理由が判らぬといった体で答えた。
その回答に、アルベルトはますます混乱してしまう。
──俺が? 何故? あんなに悦ばせてやったのに?
その隙に乗じてセルバンテスは、アルベルトのズボンを手際よく脱がせる。
そして、現れたほどよい筋肉を保った見目麗しい両足を、視姦するかのように眺めた。
「うーん、イイねぇ。やっぱり靴下は黒じゃないと」
ご満悦の表情で頷き独りごちる。
その言葉に、アルベルトは、やっと全てを理解した。
「さ、じゃあ、右足も履き替えようねぇ……」
そう言って、セルバンテスが再びしゃがみ、もう片方のすみれ色のソックスに手をかけたところで──
ドカッ!!
「きゃあ!!」
セルバンテスの顔面にアルベルトの鋭い蹴りが炸裂した。
「この、変態がぁっ!!」
同時に罵声が浴びせられる。
「おかしな奴だとは思っていたが、ここまでとは……貴様には、もう、愛想が──」
そこまで言ったときセルバンテスが弱々しい声で
「僕の勝ち……」と言い、しりもちをついたままの姿勢で、右手に握ったアルベルトの靴下をかざす。
はっと、アルベルトが自分の足に視線を落とすと、
「貴様、いつの間に!?」
しっかりもう片方もスカール社製品が履かされていた。
アルベルトは軽い眩暈を感じて、右手を額にあてた。
そうだ。眩惑のセルバンテスとはこういう男だったのだ。
他人からどれほどあしざまに罵られようと、自分のやりたいことをするためには、ときに常人の理解を遙かに超えたことをしでかす。
──知っていたはずなのにな……。
逡巡するアルベルトに、セルバンテスはそおっと近づき、顔を覗き込む。
「ねえ、怒ってる?」
流石に自分のしたことに、いくばくかの罪悪感を感じているのか、叱られた子供のように訊ねる。
「……ない……」
「え? 聞こえないよ」
訊き返すセルバンテスにアルベルトは
「怒ってなどおらんと言ったのだ」と、溜息まじりに答えた。
「貴様のすることに、いちいち腹を立てていてはこちらの身がもたん」
そう言ってアルベルトは、ようやく顔を上げセルバンテスを見た。
セルバンテスはキョトンとした表情でこちらを見つめている。
何かもの言いたげにその唇が開かれたとき、アルベルトは急に吹き出した。
「ぶっ……くくくくく……」
「え? なに? 僕、何か変なことしたかい?」
「うっ……おま……鼻……」
「え? 鼻?」
言われてセルバンテスは鼻の下をこする。
「あ……血だ……」
指を見て小さく呟いた。
それが更にアルベルトの笑いのツボを刺激する。
「ううっ、ククククク……ははははははは……ヒーッヒヒヒヒヒヒ……」
アルベルトはどうにも堪えきれず、腰掛けたままの机を叩いて爆笑する。
「ひどいなあ……君が顔をキックするからこうなったのに……」
負傷者に対してはあまりにも冷たい反応に、セルバンテスは唇を尖らせて抗議した。
「元はと言えば、貴様が……ぶっ、うっ、はははははは……」
せっかく治まりかけた笑いも、セルバンテスの顔が視界に入るとぶり返してしまう。
「それだって、僕が、君をだーい好きだから……」
「か、顔を近づけるな。ククククク……似合いすぎて……怖い……」
鼻血とセルバンテス。一見相反するように思える二つのアイテムは、その実、異様に似合っていて、どうにもいやぁなハーモニーを醸し出していた。
アルベルトは笑いを噛み殺しながら、デスクの上に脱ぎ散らしてあったジャケットからハンカチを取って、セルバンテスに差し出した。
それをセルバンテスは無言で受け取り、紅い筋を引く血を拭うと、ついでに──
ブビーッ。
「お、オイ! そこまでしろとは……」
威勢のいい音を立てて鼻をかんだ。
アルベルトはあっけにとられてその様子を見ていたが、やがて、深々と溜息をつくと、
「もういい。なにやらバカバカしくなってきた……」と、独り言のように呟いた。
それが聞こえているのかセルバンテスは、用を足し終わったハンカチを丁寧に四つにたたんでいる。
しばらく、けして気まずいものではない静寂が流れた。
セルバンテスがハンカチを自分のポケットに仕舞い込んだところで、静かなときは終わりを告げた。
「……君はさ、本気にしてないよね……」
アルベルトと視線を合わせないまま、セルバンテスが言う。
「本気?」
問い返すアルベルトと、やっと視線が絡み合う。
「僕は、君には嘘がつけないんだよ。隠し事は出来てもね」
先程までの茶番が、まるで嘘のように真摯な面持ちでみつめる瞳が、静かな翠の炎を燃やしていた。
その灯火は凡百の言葉より雄弁に真実を伝える。
アルベルトは心拍数が突然跳ね上がるのを感じた。
理由もなく早くなっていく動悸を隠そうと言葉を探すが、唇はただ開かれては閉じるだけで、その機能を果たしてはくれなかった。
その代わりに言葉を紡いだのはセルバンテスの唇だった。
「僕は君を──」
だが、それは目的を達成出来ぬまま遮られる。
音声を発する役には立たなかったアルベルトの唇によって。
長い長い沈黙。
部屋にはただ、二人の蜜を交換し合う湿った音だけが響いていた。
互いの舌を、唇を、想いの丈を存分に味わった場所は、やがて細い銀の糸を引いて別れていった。
「アル……」
翠の焔がアルベルトの二つの真紅の宝玉を捕らえる。
それから哀しげに微笑むと、ゆっくり立ち上がり言った。
「やっぱり、君は非道いな……伝家の宝刀を抜かせてもくれない……」
「そんなことは知っていたろう」
アルベルトは誘うように手を伸ばし、近づいたセルバンテスを腕(かいな)に抱く。
短く切られた柔らかい金糸の髪をあやすように撫でながら、
「嘘がつけんのなら黙っていろ。言葉は必要ない」と呟いた。
命令に応えるように、セルバンテスの両腕がアルベルトの背に回された。



ひとまず了


【言い訳】

この作品は『GR』で【盟友】のカップリングに目覚めたばかりの頃に書いたものです。
その頃、【盟友サイト】はあまたあれど、いくら探しても18禁がありませんでした。
それで、
「誰も書かないんなら私が書いてやる!」と決意を固め、【盟友】で初めて小説らしきものをしたためました。
それがこの作品です。
しかし書いてみるとなかなかにして難しく、とりあえず18禁なシーンはあるけれども【やおい】って言っていいのかどうかよくわからない作品になってしまいました。
ですから、これは、【手習い作品】ということで【習作】とさせていただきます。
【習作】ですので、これ以後に書いた【盟友小説】とは若干設定が異なる部分がありますが、お許しください。
因みにこれは、アルベルトもセルバンテスもまだ20代の頃だと思っていただければ幸いです。




<<戻る


inserted by FC2 system