最近俺はちょっとおかしい。
小さなことが気になって眠れない日があったりする。
哲学するのは柄じゃないってわかってるのに、答えの出ない同じことをぐるぐるぐるぐるいつまでも考えてしまう。
かくれんぼを知らない子供が増えたって話してた誰かの言葉。
独り暮らしの老人が誰にも看取られないで死んでしまったってニュース。
俺の知らない遠い国でこの瞬間にも飢えて死んでいく小さな生命。
見知らぬ中年男に僅かな代価で身を売る孤独な少女達。
自分の創り上げた世界を壊されるのを恐れて他人を切り裂く哀しい少年達。
なのに……。
世論調査では国民の九割が中くらい満足してるらしいって言っていた。
報道されるのは悲しい事件ばかりだ。
俺がどんなにがんばって事件を解決しても、それは氷山の一角ですらない。
毎日毎日、人の生命は軽くなっていくような気がする。
自殺も他殺も事故死も病死もただの情報でしかなくなっていく現実。
刑事になったのは何のためだったのか。俺に出来ることは本当にあるのか。
考えても考えも答えは出ない。
きっとみんな気付いてるはずだ。何かがおかしいんだってことに。
なのに……。
明日になれば忘れたフリをして日々を生きるんだ。俺も……。
和久さんに訊いたら、
「お前ひとり悩んでもしょうがねえだろ、無駄なこった。切ないだけじゃねえか」って言われた。
俺はアンタを思い出していた。
こんなことを話したら、アンタもそんなふうに俺を嗤うのかな。
室井さん、アンタもそんなふうに俺を嗤いますか。







最近私は少しおかしい。
些細なことが気になって眠れない夜がある。
悩んだところで何も解決しないことはわかっているのに、答えの出ない同じことを堂々巡りのようにいつまでも考えてしまう。
権力を利用した政治家の汚職。
相次ぐ警察官の不祥事。
それを揉み消そうとする官僚達。
そしてそのニュースに蠅のように群がるマスコミ。
市民はマスコミの暴いた情報を甘い蜜でも吸うように喜んで味わう。
なのに……。
世論調査では国民の九割が中くらい満足しているらしいと言っていた。
報道されるのははどこかねじ曲がった悲しい事件ばかりだ。
私が声高に改革を叫んでも、誰の耳にも届かない。
毎日毎日、人のモラルは薄くなっていくような気がする。
倫理も道徳も秩序も良識も遠い異国の言葉のようになっていく現実。
警察官になったのは何のためだったのか。私に出来ることは本当にあるのか。
考えても考えても答えは出ない。
おそらく誰もが気付いているはずだ。何かがおかしいということに。
なのに……。
明日になれば忘れたフリをして日々を生きる。私も……。
一倉に話したら、
「お前ひとりが悩んだって仕方ないだろ、無駄なことはやめろ。切ないだけだ」と返された。
私は君を思い出していた。
こんなことを言い出したら、君もそんなふうに私を嗤うだろうか。
青島、君もそんなふうに私を嗤うか。






雨が降っていた。
細い糸のような静かな雨が。
雨は窓にぶつかって滴となって落ちていく。
音も立てず、やさしく、涙のように。
傘に降りそそぎ滴となって流れていく。
音もなく、やわらかく、涙のように。





新木場駅の降り口で二人は会った。
互いの姿を見つけて一瞬立ち止まる。
同時に名前を呼んだ。
今一番逢いたいと思っていた者の名を。
「おかえりなさい」
最初に動き出したのは青島の方だった。
差していた傘の中に室井を招き入れる。
室井は黙ってそれに従った。
少し大きめの傘は、大人の男二人が入っても、充分雨がしのげるサイズだった。
それでも青島は、
「濡れるよ……」と囁き身を寄せる。肩が触れあうほど近く。
いつもなら人目を気にする室井が、今日は少しも拒もうとはしなかった。
肩を寄せ合ったまま二人は歩く。
やさしい雨に感謝して。
「なんで、来るのわかった?」
室井が訊く。
「逢いたかったから」
青島が答える。
大きな目を見開いて室井は青島を見つめた。そして、薄く微笑んだ。
「……私も逢いたかった」






いつの間にか彼は穏やかな寝息を立て始めていた。
二人で寝るにはちょっと狭いベッドの左側で、彼の性格そのままに姿勢正しく仰向けになった姿が視界に入り、思わず口元が緩んでいく。
眠っていても少しだけ眉間に皺が刻まれていた。
昼間、俺たちの夢のために脇目も振らず戦う強く雄々しいこの人も、心の奥底で俺とは形の違う、でも、明らかに同じ痛みを伴った困惑や怒りを抱いていることを知った。
同じ光を目指しているのに、俺たちは何度もすれ違いぶつかり合った。ときには抜き身の刃でお互いを鋭く切り裂くような傷を負わせることもあった。
それでも、俺たちはこうして一夜を共にする。
心がからっぽの夜には、この人を思い出す。
俺は眠る恋人を静かに想う。
彼の愛について。魂について。志について。
そして、その熱い心について。
俺はいつまでアンタを支えられるのだろう。
アンタはいつまで俺を……。
優しい睡魔が俺を穏やかに誘っていく。
俺は深く安らかな眠りに落ちていった。






真夜中、ふと目を覚ます。
二人で横たわるには少しばかり狭いベッドの右側で、まるで胎児のように身体を丸めて穏やかな寝息を立てる者の顔が視界に入り、知らず口元がほころんでゆくのを感じる。
子供のように健やかな寝顔。
悩みなど何もないかのように安らかに眠りを貪るこの男にも、心の奥底には私とは形の違う、しかし、明らかに同じ響きを伴った不安や憤りがあることを知った。
同じ所へ向かって歩いているのに、私たちは何度もすれ違いぶつかり合った。ときには剥き出しの牙や爪で互いを深く剔るような傷を作ることもあった。
それでも、私たちはこうして共に夜を過ごす。
心が酷く渇く夜は、この男を思い出す。
私は眠る恋人を静かに想う。
彼の愛について。生命について。信念について。
そして、そのやさしい笑顔について。
私はいつまで君を守れるのだろう。
君はいつまで私を……。
優しい微睡みが私を穏やかに呑み込んでいく。
私は深く安らかな眠りに落ちていった。






雨はまだ降っていた。
細い糸のような静かな雨が。
音も立てず、やさしく、やわらかく。
だが、地上に降りそそぐその滴は、もう涙ではない。
この世で闘うあまたの戦士たちの、傷を癒すせせらぎになるのだ。
それは遠く未来へと流れ、やがて夢の海へとたどり着く。
今は眠る彼らも、何れその海を見るだろう。
二人共にあり続けるならば。きっと、いつか。






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