「室井さん、室井さん、室井さぁん
部屋へ入ってくるやいなや青島は、いきなり私に抱き付いてきた。
「うわぁっ!」
不意のことに私はそのまま後ろに転倒してしまい、押し倒された形になってしまった。
「ちょっ……青、しまっっ」
私は青島を押し退けようと肩を掴むが、渾身の力で押し返されて身動きがとれない。
「青島っ、玄関先でじゃれつくな!」
力が及ばないので、せめて言葉でと怒鳴ってはみたが、
「室井さんの匂いだぁ 」と私の肩口に鼻を擦り寄せ、こっちの抗議など聞いてはいない。
「いいかげんにしろっ!!」
ポカリと一発、青島の頭に拳骨をお見舞いしてやった。
「……っ痛ぇ……」
青島は口をへの字に曲げて恨めしげに私を見た。
「殴ることないじゃないですかぁ」
体を起こして頭をさすっている。
大袈裟な。そんなに強く殴ってないだろ。
「室井さん、乱暴だよ。愛がないよ……」と同情心を煽るような目で訴える。
何を言うか。殴られるようなことをするお前が悪い。それになんだ、愛がないとは。失敬な。左手だったという情けに気づけ、馬鹿者。
そうは思っていても、どうにも私は青島のこの顔に弱い。
付き合いだして随分になるというのに、こいつのこの表情は半分……いや、九割以上演技だと判っているのに、この目で訴えられると……。
「……青島……」
私は青島のネクタイをひっ掴み、ぐいと引き寄せて軽く触れるだけのキスをしてやる。
「……」
青島は両眼を見開いて、たった今私が触れたところを指でなぞっていた。
「……詫びだ……気が済んだろ。いつまでも玄関先にいないで、奥へ来い」と私は立ち上がって居間へ向かおうとした。
ところが、
「加速度つきましたっっ!」と奴は再び私に抱き付いてきた。
うっとおしいっ。後ろからしがみつくな。
振り払おうにも腕はしっかり前で組み合わされていて、つまり私はすっぽりと青島の腕の中に納まる形になってしまっていて、腕を上げることも出来ない。
くそっ、こいつ、また殴られると思って予防線張ったな。
「室井さぁん」
甘えた声を出して私にのしかかってきた。
お、重い……。
一瞬投げ飛ばしてやろうかと思ったが、ここでそんなことをすると台所の扉のガラスが割れそうなのでやめた。
こんなほんずなしは怪我をしようが知ったことではないが、ガラスは割れると後が大変だ。どうせ私一人で片づけなければならないに決まっている。
仕方なく私は、でかい荷物を引きずったまま居間へ向かった。
居間に辿り着いた私は、卓袱台の前でとうとう力つきてしまった。
重すぎる……。身長差なんてたかが八センチだというのに、なんだってこんなに重いんだ。前より重くなってないか? この前会ったときはこんなに重いとは感じなかったぞ。
私が動けなくなっているのを良いことに、青島の手が何やら不穏な動きをし始めた。
「……青島……何をしている?」
「へへへ……いいこと
そう言いながら私のTシャツの裾をたくしあげ、直に腹を撫でまわす。
ブチッ!
私の中で何かが切れる音がした気がした。
「このほんずなしがっ!」
私は勢い良く後ろへ体を倒して、背中で青島を押さえ込んでやった。
ゴチン!!
何か固い物がぶつかる音がする。
と同時に
「あっ!」という青島の短い悲鳴が聞こえた。
私を抱きしめていた青島の腕が、力無くほどけて畳に落ちる。
やっと自由になった私が青島の方に向き直ると、奴はピクリとも動かずのびてしまっていた。
「ここにぶつけたのか……」
どうやら青島は卓袱台の角に頭をぶつけたらしい。それも目をまわすほど強烈に。
自業自得だとは思ったが、気絶してしまうほどの衝撃を頭に受けたとなると、ほうってもおけない。
「青島、おい、青島」
私は青島を揺り起こした。と、青島は
「っ……いってぇ〜。室井さぁん、むちゃくちゃ痛いです。さっき殴られたトコと同じトコ打ちました」と起きあがって恨めしげに私を見た。
知るかっ。お前が悪い。
ムッとしている私をよそに、青島はまた懲りもせず両腕を伸ばしてきた。
私はその手を払いのけようとして違和感に気づいた。
「あ、青島……」
「え? 何?」
「……鼻血……」
青島の左の鼻孔から一筋、鮮血が流れ出していた。
「あーっ!」
青島は流れ出る血を指で拭って、奇声を上げる。
「上向け、上っ」
唇を伝って顎まで流れ落ちようとしている血液を拭いてやるため、私はティッシュの箱に手を伸ばした。
「室井さん……早く、間に合わないよ」
間一髪、床にこぼれ落ちることは何とか防ぐことが出来た。だが、後から後からあふれ出す血液は、瞬く間にティッシュペーパーを真っ赤に染めていく。
「これで、押さえてろ。タオル取ってくっから」
私はティッシュを箱ごと青島に渡し、バスルームへ走った。
戻ってきたときには、ティッシュの箱はほとんど空になっており、青島の周りに血だらけのティッシュペーパーがいくつも散乱していた。
受けきれなかったのか、ワイシャツの襟や胸にも血液の赤黒いシミがついている。
「ムロイひゃん……、ごめん、ティッシュ、れんぶ(全部)なくなっちゃった」
「そんなこと気にするな。仕方ないだろ」
上を向いたまま、申し訳なさそうに言う青島に、私はタオルを手渡した。
青島はそれで鼻を押さえたが、どうやらそれでも間に合わないようで、白いタオルが、見る間に赤く変わっていく。
「らめら……止まんらいみらい。ムロイひゃん、洗面器持っれ来れ」
「洗面器……」
私は背筋が寒くなる思いがした。
たかが鼻血といっても、そんなに出血して大丈夫なのか?
いや、大丈夫なわけがない。確か全体量の三分の一出血したら死ぬって……死!? 死んじゃ駄目だ、青島っ! しかも、鼻血なんかで。恥ずかしすぎる。ああ……でも、この鼻血は私のせいか? さっき卓袱台に頭ぶつけたから。すまない青島……。私が悪かった。もう、お前がちょっとくらいじゃれたからって、邪険にしたりしないから……だから……死ぬな。私を置いて逝くなっっ!
「あろー……ムロイひゃん……洗面器……早く持っれ来れくんらいろ、タオル、もう、らめっぽいんスけろ……」
青島の声にハッと我に返った私は、慌てて立ち上がり再びバスルームへ向かった。
しかし、自分でも何をしているのかわけが判らず、私は何を思ったのか、バケツを持って戻ってきてしまった。
「ば……バケツ……室井さん、いくらなんでも、こんなには……こんなに出たら死んぢゃいます」
「死ぬなっっ!」
青島の言葉に、思わず私は青島に取りすがっていた。
「ああっ! 室井さん、ダメ、ダメ。血がついちゃうよ」
「かまうものか!」
お前の血で汚れるなら本望だ。それでお前が助かるなら、私は……。
「あ〜、また垂れてきちゃったよ……もう、バケツでイイや」
青島はそう言って私を押し退け、バケツを膝の上に抱え込んだ。
「お、調度良いサイズ。洗面器よりこっちの方が楽だ。さすが室井さん。頭いいっスね」
私の心配をよそに、青島は呑気なことを言う。
その間も止まることなく流血しているというのに。
青島……たかが鼻血と侮ってはダメだ。お前、状況が判っていないのか? ……それとも……それとも、私を心配させまいとしてわざと明るく? きっとそうだ。青島俊作という男はそういう奴じゃないか。自分が辛くとも、いつだって笑顔を見せる。そういう男だ。なら、今一番戸惑っているのは青島本人だ。こんなに出血して怖くないわけがない。
そこまで考えて、私はやっと自分がするべきことを理解した。
パニックに陥っている場合じゃない。私がしっかりしなくては。青島は私のせいでこうなったんだから。
「あれ? 室井さん、どこ行くの?」
立ち上がった私に、青島が声をかけた。あんなことを言っていても、やはり不安なのだろう。
私は出来るだけ冷静な口調で言った。
「電話だ。救急車呼んでくる」
「ええっ!? 救急車ぁ!! 大袈裟っスよ、室井さん」
青島は裏返るほど大声を上げ、私を止めようと思ったのか、立ち上がろうとした。
私は慌ててそれを制する。
「馬鹿! じっとしてろ。安静にしてなきゃ、もっと出るぞ」
「で、でも……」
青島は困ったような表情をして口ごもった。
判ってる。お前が私の立場を危惧してくれているのは。官舎に救急車を横付けにしたらきっと大騒ぎになるだろう。だが、そんなことはこの際気にしてはいられない。お前の命がかかってるんだ。
私は、Tシャツの裾をしっかり掴んで私を押し止めようとしている青島の手を、そっと解いて立ち上がり電話機に向かった。
ダイヤルをする前に一つ深呼吸をして気持ちを落ち着ける。こういうときは、慌てていると間違って一一〇番をプッシュしてしまうことがある。いくらなんでも現職の警官がその間違いを犯しては笑い話にもならない。
「あのぉ……室井さん……」
背後から青島の不安げな声が聞こえてきた。しかし、私は振り返らず、受話器を取り119のボタンを押した。血みどろの青島の顔を見たら、また、焦りが甦ってきそうだったからだ。
二回のコール音の後、受話器から機械的なほど冷静な女性の声が聞こえてきた。
「はい。119番です。どうされましたか?」
「救急車をお願いします」
私は受理台の女性に負けないよう努めて冷静を装って応えた。
「場所は? 住所をお願いします」
「六本木、警視庁官舎。独身寮八階の一号室です」
「警視庁……」
女性は私の答えに更に襟元を正したような慇懃な声になった。
「患者さんの容態をご説明いただけますか?」
「……」
「どうなさいました?」
彼女は一瞬言葉に詰まった私を訝しんだのか、やや強い口調で先を促した。
躊躇(ためら)っている暇(いとま)はない。私は彼女の声に背を押されるように口を開いた。
「鼻血……です」
「は?」
「鼻血が止まらないんです」
「はあ……」
彼女の声音の色が変わった。
「鼻血、ですか……」
明らかに侮蔑を含んだ訊き方だった。
私はムラムラと怒りが沸き上がってきた。
「たかが鼻血と思うな! 一刻を争うんだっ!!」
受理台の女性のあまりの態度に、私はつい怒鳴りつけていた。
「室井さん」
後ろから聞こえる青島の諫めるような声に、私はハッと我に返った。
感情的になってはいけない。冷静にならなければ。
「すまない……声を荒げて。しかし、出血が酷いんだ」
「いえ、こちらこそ、申し訳ありません。で、どのくらい出血していますか?」
「どのくらい……」
私の脳裏には青島の抱えていた青いバケツが浮かんでいた。
「……バケツ……バケツいっぱい……」
「はあ!?」
「室井さんっっ!?」
彼女の声と青島の声が同時に耳に飛び込んできた。
「冗談はやめて下さい」
今度は彼女が声を荒げている。
そうか。それは言い過ぎだ。まだそんなには出ていない。いや、だが、このまま放っておけば遠からずそうなることは目に見えている。
「冗談じゃない、ホントにそのくらい……」
状態の悪さを説明しようとしたとき、トントンと肩を叩かれた。
振り返るとすぐ後ろに、決まり悪そうな顔をした青島が立っていた。
「……止まっちゃった……」
「……」
「実は……ちょっと前から、止まってました」
「……」
「電話、止めようと思ったんだけど、室井さん、ぜんぜんこっち向いてくれないし……」
「……」
「言おう言おうと思ってたんスけど……あのね、俺、昨日、晩飯にレバ刺し三皿食ったんですよ。そんで、ここ来る前に赤まむし飲みました」
「……」
「だって、すごい久しぶりだし、精つけてサービスしなきゃって思って……」
静かな怒りがふつふつと沸き上がる。
「あーおーしーまーー」
握りしめた右手の拳がわなわなと震えるのを感じた。
私がその手を振り上げようとした瞬間、
「あのぉ……もしもし」。受話器から、放っておかれたままの受理台の女性の声が聞こえてきた。
「救急車はどうされますか?」
嘲るような、突き放すような言い方だった。
おそらく今のやりとりがみんな筒抜けだったのだ。
私は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。穴があったら入りたいとは正にこんな心境のことを言うのだろう。
「……」
私が答えられずに固まっていると、青島が横から受話器をひったくった。
「すいませーん。救急車ね、キャンセルして下さい」
なんて軽い言い方だ。お前のことなのに。
「うわっ!」
私が呆れていると、青島は小さく悲鳴を上げて、耳を押さえながら受話器を置いた。
「……へへへ……『悪戯はやめて下さい。ガチャン!』だって」
薄ら笑いを浮かべて言う青島に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「……当たり前だっ! このほんずなすがっっ!!」




ちゃんちゃん




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