それはある日の夕方のことだった。
 トッドが、夕飯の買い物を終えて、市場から帰ろうとしたとき、黒いスーツにサングラスのヤクザ風の男が声をかけてきた。
 「もしもし……」
 「あなたのおかけになった電話番号は現在使われておりません。もう一度お確かめのうえおかけ直しください」
 「あ、そうですか、すみません……って、そうでなくてぇ」
 思わず乗せられてしまったヤクザ風の男は、汗をふきふき、咳払いをし、
 「貴方、トッドさんでしょう?」と、シリアスに調子を戻してたずねた。
 「そうだけど、なんで俺を知ってるんだよ? ははーん、さてはキャッチセールスだな。なら、おことわり。俺、金持ってないよ。さっき全部使っちゃったからね。他あたりな」と、トッドはすげなく断ろうとしたのだが、男はすかさず、
 「いえいえ、そうではありません。私は、貴方の類い希なる才能を見込んだ、とある人物から頼まれて、貴方を引き抜きに参った、いわばヘッドハンターのようなものです」と、早口に説明した。
 「あっそう」
 トッドは無視して立ち去ろうとした。しかし、二、三歩進んでから、はたと、男の言葉の内容を理解して振り返った。
 「へっどはんたーぁ?」
 「はい。貴方は今、お世辞にも豊かとは言いがたい暮らしをしていらっしゃるようですが、どうでしょう?」
 「大きなお世話だ」
 「まあまあ、そうお怒りにならずに聞いてください。
 貴方の現在の暮らしは、貴方の才能が上手く活かされていないからだと思います。貴方のボスは、よほど貴方の使い方が下手だとお見受けしますね。しかし、『貴方を欲しい』と、おっしゃっている方は、決して貴方を貴方のボスのように粗雑に扱ったりは致しません。それどころか、貴方が組織に来てくださるなら、貴方の欲しいだけのギャランティを差し上げてもいいとさえ言っています。どうです? 悪い話ではないでしょう?」
 ヘッドハンターは、今度はゆっくり、トッドが理解しやすいように話した。
 一瞬、クラリとしてしまうような、おいしい話だった。だが、あまりにも旨すぎて胡散臭いことこの上ない。
 いくらトッドでも、そんな怪しげな話に、二つ返事でついて行くほど愚かなことはしない。
 「馬鹿じゃないの、あんた。人を見てスカウトしろよ。俺は、今の暮らしに満足してるから、全然そんな気はないよ」と、きっぱり断った。
 だか、敵もさる者引っ掻く者。
 「そんな冷たいことおっしゃらずに……」と、トッドの腕にすがってきた。
 「よせよ、ひつこいなー」
 トッドは、ヘッドハンターの手を振り払って、逃げるように走り出した。
 「きっと、お気が変わられると思いますよー、待ってますからねー」と、呼びかけるヘッドハンターの声が遠ざかっていった。



 アジトへ戻って来たトッドは、キッチンのテーブルの上に、ドサリと勢いよく荷物を降ろす。す
ると、そのはずみで、何か小さな紙切れのようなものが、パラリと床に落ちた。
 「なんだこりゃ?」と、トッドは面倒臭そうに拾い上げる。
 「フェニックス商会、最高幹部……なんだ、さっきの奴の名刺か……」
 名刺の裏には、ご丁寧にも、事務所だかアジトだかの地図が印刷されていた。
 「チェッ、目と鼻の先じゃないか。それで俺のこと知ってたんだな。フゥ〜」と、トッドは大き
なため息をついて、買い物袋と一緒に名刺をまるめてゴミ箱に投げ捨てる。
 ちょうどキッチンの前を通りかかった教授が、その声を聞き付けて、
 「おう、帰ってたのか、おかえり。それにしても、また、ずいぶん大きいため息だなあ。何か
あったのか」と、不思議そうな顔でたずねた。
 「あ、教授、ただいま戻りました。……俺、ため息なんかついてました?」
 「無意識についてたのか? それにしちゃデカかったぞ」
 「そ、そうですか? でも、何でもありませんよ。心配しないでください」
 「そうか、それなら別にいいんだがな……」
 そう言って、教授は、キッチンを出て、奥の書斎の方へ行ってしまった。
 トッドは、教授が書斎に入ったことを確認してから、
 「教授に言えるわけないよな……」と、また、深いため息を吐いた。



 「五回目」
 夕食の途中で、たまりかねたスマイリーが、大声で言った。
 「え?」
 その声に、はっと、我に返ったトッドは、キョトンとした顔でスマイリーを見る。
 「ため息だよ。ごはん食べはじめてから、もう、五回目だよ」
 「今日は変だぞ。熱でもあるのか?」と、教授も心配そうにたずねる。ダボハゼと格闘しながらではあるが。
 「べ、別に……なんでもないです……」
 「なんでもないってことないでしょ。帰ってからずっとじゃない。もどってきてから七回でしょ、食事のじゅんびの間に八回でしょ、ごはん食べてて五回でしょ、だから、ええと……」
 「二十回だよ」と、あきれ顔で告げる教授。
 「そうそう、二十回。そんなにため息ばっかりついてるなんて、ぜったい、ヘンだよ。なんか、なやみごとでもあんの? だったら話してよ。ボクたちじゃ力になれないかもしれないけど、話せばすっきりすると思うよ」と、心優しいスマイリーは心配げな顔で言った。
 「うむ、聞くだけならタダだしな。ま、金以外の悩みなら、相談に乗ってやらんでもないぞ」と、教授もいつもよりは優しく言う。
 トッドは、チラリと上目使いに二人を見た。そして、再び、深々とため息をついた。
 「二十一回」
 「重症だな……」
 「ひょっとして、恋わずらい?」と、今度はちょっと面白そうに聞くスマイリー。
 「そんなんじゃねーよ」と、トッドはうっとおしそうに言う。
 「じゃあ、何なんだよ。言ってみろ、気になるだろう」
 教授は、好奇心から、テーブルに身を乗り出して促す。スマイリーとはまるで正反対だ。
 二人から問い詰められて、トッドは意を決して話す気になった。
 「実は……」
 「「うんうん、実は?」」
 「今日、買い物の帰りに……」
 「「うん、帰りに?」」
 「ヤクザの幹部みたいな奴に……」
 「「うんうん」」
 「……ヘッドハントされた」
 「えっ!?」
 教授は驚きのあまり、ガタンと大きな音をたてて、イスから立ち上がった。
 「そ、それで?」と、教授は、おずおずとたずねる。
 「そんな顔しないでください。だから言いたくなかったんだ」
 「出て行く気か……?」
 さっきまでの、好奇心丸出しの態度とはうってかわって、心配で心配で仕方がないという様子だ。
 「ええっ? まさかぁ、どこにも行きませんよ」と、トッドは慌てて全身で否定する。
 「そうか……ハハハハ……そうだな……」
 教授はほっとして、へたりこむように、イスにドカッと腰をおろした。



 次の日
 トッドは昨日と同じ頃に、夕飯のおかずを調達しに出掛けた。
 昨日、買い物に行って、すっかりオケラなので、今日は、釣りざおを持って魚釣りだ。
 そこそこの収穫を上げてアジトに戻ってくると、ドアが閉ざされ、カギがかかっていた。
 カギは一つしかないうえ、教授の好みで錠前の仕掛けが複雑になっているので、トッドは締め出された形になってしまった。
 「なんだよ、俺が外にいるのに出掛けたのかー? 盗られるもんなんかないんだから、カギかけなくてもいいのに……ま、すぐ帰ってくるだろうから、待ってるか」
 ところが、三十分待っても一時間待っても、教授もスマイリーも帰って来ない。
 「くそぉ、二人とも、どこ行ったんだよ。俺のこと忘れてるんじゃねーのか?」
 トッドは、腹立ち紛れに、エモノの入ったバケツを蹴飛ばした。
 そして、ぼんやりと自分のこれまでの扱われ方を振り返っていた。
 今日のこのことと言い、毎日毎日の使い走りや、おさんどんと言い、どう考えても、労働と利益の採算が取れていないような気がする。そう思うと、何だか、ますます腹が立ってきた。
 「あーあ、昨日のヘッドハンターの言うことも、まんざら当たってなくもないかもなー」と、トッドはつぶやいて、昨日よりも深いため息を吐いた。
 嫌なことがあったとき、一人でいると、思考はどんどんマイナスの方向に向かって行く。
 やがて、二時間近く経ち、これ以上はないというほど、トッドの気持ちがナーバスになった頃、やっと、教授が一人でこちらに歩いてくる姿が見えた。ステッキをクルクル回して、口笛なんか吹いている。他人の気も知らないでいい気なものだ。
 「! あ、トッド、すまん、すまん。今、カギ開けるから待ってろ」
 教授は、ドアの前のトッドに気が付くと、慌てて走って来て、カギを開ける。
 「どこ行ってたんですか!」
 トッドは、イライラしているらしく、かなり激しい口調で訊いた。
 「どこって、仕事の下見に決まっとるだろう。ほれ、この間話した『揚子江の魔女』、あれの警報機の仕組みをな……」
 「お一人でですか!?」
 「いや、スマイリーとだよ」
 「俺は仲間はずれってわけですか……」
 「やな言い方するなよ、ちょっと忘れてたんだよ」
 「忘れてた!? 俺を!?」と、トッドは教授に掴み掛からんばかりに怒鳴った。
 教授は、人一倍気が短い。だから、ほとんどの他人は自分より温厚だと思っている。もちろん、トッドもその例外ではない。教授は今まで一度もトッドに怒られたことはない。トッドが怒るより先にいつも、教授の方が切れているからだ。そのせいで、教授は、トッドは自分が何をしても怒ったりしないものだと高をくくっている節がある。ところが、今日のトッドはいつもと違っていた。滅多に怒らない人間が、一旦怒りを爆発させると、普通の人のそれよりもインパクトがある。その迫力に気後れした教授は、へらへらしながら
 「そう、怒るなよ、たかがカギ閉めたくらいで」と、お茶を濁す。
 しかし、その言い方が、さらに火に油を注いだ。
 「たかがー! 何時間待ったと思ってるんですか!! 教授のために苦労して晩飯採って来たのに、俺のことすっかり忘れて……二時間も待ったんですよ!」
 「恩着せがましいなー。ちょっと忘れたぐらいで、何もそこまで怒るこたないだろう」
 教授も、少しムッとする。
 「……俺が、どんな気持ちで二時間待ってたと思ってるんですか?」
 どうやら二時間は、この日のトッドにはとても長い時間だったようだ。
 「教授は、仕事に行く時でも俺を忘れちまうんですね。俺なんか、いてもいなくてもどうでもいいんだ……」
 「なんで、そうなるんだよ。そんなこと言っとらんだろう」
 「やっぱり、昨日のヘッドハンターの言うとおりだ……」
 「え? 何の話を……」
 「教授にとって、俺はそれぐらいの人間だったんだ……。言うことを聞いてくれる奴なら、俺じゃなくても誰でもいいんだ……」
 教授をなじっているうちに、だんだん哀しくなってきたトッドは、うなだれて、呟くように言った。
 「な、何を馬鹿なことを……」
 そんなこと、普段考えもしていなかった教授は、あきれて、鼻で笑ってしまった。
 「だって、そうじゃないですか! いつもいつも俺をこき使って、気に入らないことがあるとすぐステッキ振り回して脅すし、これじゃ、仲間というより奴隷だよ……。あんたみたいなわがままな奴見たことないよ」
 哀しさがまた、怒りに変わってきた。
 「言わせておけば、好き放題なことを。誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ」
 教授もだんだんテンションが上がってくる。
 「俺だよ!」
 「なにい!」
 「そうじゃないか! 今日だって俺が飯を調達してきたんだ! あんたなんか俺がいなきゃ、何にも出来ない、俺が養ってやってるんだよ!!」
 「何だとぉ。お前こそ、ワシがいなきゃ、とっくにスリかカッパライで捕まって、今ごろはブタ箱の中で情けない声出しとるわい。『教授ぅ、助けてぇ』ってな」
 「ケッ、えらっそおに。いつもいつもくだらない計画立てて、失敗ばっかりしてるくせに……」と、トッドは小馬鹿にするように言い放った。そして、とうとう、
 「もう我慢できない、こんなとこ、出てってやる!」と、怒鳴る。
 「ああ、出てけ出てけ。うるさい奴がいなくなって、せいせいするわ」と、売り言葉に買い言葉で、吐き捨てるように言い返す教授。これだけは、言ってはならない禁断の台詞だったのに。だが、もう、回り出した歯車は止められなかった。
 「長い間、お世話させていただきました。ごきげんよう!」と、トッドは強烈な捨て台詞を残して、スタスタと、身一つで、本当に出て行ってしまった。
 去り際に、トッドは、プテラノドンをかたずけて格納庫から戻って来たスマイリーとすれ違ったが、怒りで眼中になかったのか、全く無視して行ってしまった。
 何も知らないスマイリーは、
 「あれ? アニキなんかおこってるみたいだったけど、どこ行ったんですか?」と、教授にマヌケな質問をする。
 「出て行ったんだよ……」と、教授はスマイリーから視線をそらして、聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った。
 「ええー!? うそでしょー!」
 「だったらいいんだかな……」と、教授は独り言のように呟くとアジトの中へ入って行った。その背中は、スマイリーにはいつもよりずっと小さく見えた。



 「やあ、トッドさん。お待ちしてましたよ。貴方は必ず来てくださると信じていました」と、昨日のヘッドハンターが、トッドの来訪を大歓迎してくれた。
 あの時、どさくさに紛れて渡された、名刺の地図のおかげで、ここの場所はすぐにわかった。
 昨日はずいぶん、つっけんどんな態度をとってしまったので、門前払をくわされるかと半信半疑だったが、ほっとした。どうも、ここの主人は本気でトッドを必要としているらしい。
 「ささ、そんなところに立ってないで、中へお入り下さい」
 ヘッドハンターに勧められるまま、廷内に入ると、見たこともないようなゴージャスなインテリアが並べられていた。ゴミだめのようなモリアーティ教授のアジトとはえらい違いだ。
 「すげえ……」と、トッドが感心していると、ヘッドハンターは、
 「こんなものは、二束三文のガラクタですよ。お客様にお見せするのもお恥ずかしい限りです」と、涼しい顔で言ってのけた。
 「貴方が、本当にうちの組織で働いて下さるなら、このくらいの物はすぐ手に入ります」
 「こ、これがぁ……」
 トッドは、目を瞬かせて驚いた。
 「すぐには信じられないお気持ちはわかります。あんな、ひどい暮らしをなさっていたんですからね。でも、そんな生活はもうおしまいです。これからの貴方にはバラ色の未来が用意されています。とにかく、詳しい話はボスの方からお聞きになって下さい。さ、こちらへどうぞ。ボスにお引き合わせ致します」
 ヘッドハンターはそう言って、トッドを、二階のボスのプライベートルームらしい部屋へ案内した。
 部屋の奥の、これまたゴージャスで大きいデスクに、ボスは鎮座ましましていた。もちろん、部屋の中は、高そうな家具や装飾品で美しくコーディネートされており、書類や書物も整然と並べられ、チリ一つ落ちてはいない。ここもモリアーティ教授の私室とは雲泥の差だ。
 トッドはそのあまりの高級感に、落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回した。
 「遠慮しないでこちらへ来たまえ」と、ボスはトッドを手招きした。
 ヘッドハンターに背中を押されるように、トッドはボスのデスクの前へ来る。
 「よく来てくれたね。君が来るのを心待ちにしていたよ。もちろん、正式に組織の一員になってくれるつもりなんだろう?」
 ボスは、押しの強そうな声で訊いた。
 「え? ええ、まあ……」と、トッドは、この期に及んで決心を渋っているのか、煮え切らない返事をする。
 ところが、ボスはそれをイエスの返事と受け取った。
 「そうか、そうか。君は、必ずそう言ってくれると思っていたよ。いやあ、よかったよかった」と、ボスはそばまで来てトッドの手を取ると、あいている方の手で肩をバンバンたたいて、大袈裟に喜んだ。
 ここまでされたら、もう断れない。
 『ちょっと、早まったかな、俺……』と、トッドは思ったが、
 「さあさ、彼をお部屋にご案内して差し上げなさい。トッド君、今日のところはゆっくりくつろいでくれたまえ。しばらくしたら、君には存分に働いてもらうからね」と、ボスに、取り付く島もあたえず矢継ぎ早に言われて、断るきっかけを失ってしまった。



 ボスの言っていた「部屋」までは少し距離があるらしく、広い廊下をずいぶん長く歩かされた。
 その廊下も、今まで通った廊下と同じく、高価な美術品が何点も飾ってあった。しかし、それらには何の脈絡も統一性もなく、来客に見せびらかすためだけに展示してあるようにしか見えず、トッドの目にはいささか悪趣味に映った。
 「これ全部盗んだやつ?」と、トッドは聞いた。
 「全部という訳ではありませんが、三分の二はそうです。」
 「いいなあ、これだけあれば、当分、食うには困らないだろうなあ……」と、独り言のように呟いた。
 「何を、人事みたいに……。貴方も組織の一員なんですから、この美術品も貴方の物のようなもんですよ」と、ヘッドハンターは言ったが、その声はもう、トッドにはまるっきり聞こえていなかった。
 『これだけのお宝を手に入れられたら、教授、喜ぶだろうな。これ、センスはねーけど金にはなりそうだもんな。こっそり、二、三個持って帰ろうかな……。! 何考えてんだ、俺。教授とはケンカしたんだった。帰るとこなんかないんだよ。……でも、俺がいなくなって、困ってるだろうな……洗濯物だってたまってるし、食器もかたづけてねーし、飯の準備もしてないし……。教授、ちゃんと飯食ったかな? スマイリーじゃ頼りにならねーしなあ。今ごろ腹すかして泣いてるんじゃ……』
 「トッドさん、どうかしたんですか? なんだか、心ここにあらずって感じですね」
 棚の上にあった絵皿を握り締めて凝視して考え込んでいたトッドに、ヘッドハンターは少しきつい口調で冷ややかに尋ねた。
 その声にはっと我に返ったトッドは、何かを決心した表情でヘッドハンターの方に向き直ると、
 「ごめん、やっぱり俺、あんたたちの仲間にはなれないよ」と、言って、玄関の方へ行こうとした。
 「えっ? ちょ、ちょっと待って下さい、一体どこへ行くんですか!」と、ヘッドハンターは驚いて呼び止める。
 「あ、ごめんごめん、これ、このお皿ね……うっかりしてたよ。はいはい、ここに戻しときますよ」
 トッドは手に持ったままだった絵皿を、しぶしぶ元の棚に戻しながら、
 『ちぇっ、こんなに持ってるんだから、一枚くらいくれたっていいのに、やっぱ、金持ちはケチだねー』と、思った。
 「そうじゃありませんよ。ま、それもありますが、私が言っているのは、玄関の方へなんか行って、どうなさるつもりだったのかということです!」
 「どうって、帰るんだよ。決まってるじゃないか。やっぱり、教授をほってはおけねーからな」
 「そうですか……。ひょっとしたら、そうおっしゃるんじゃないかと思っていました」と、ヘッドハンターは、ため息交じりに言った。
 「なんだ、結構ものわかりいいんだ、あんた。んじゃ、そういうことで」と、片手を挙げてあいさつし、玄関の方へ去って行こうとするトッドを、ヘッドハンターは、
 「そうはいきませんよ」と、腕をつかんでひきとめた。そして、
 「ここまで来た以上、どうしても、我々に協力していただきます!」と、トッドの袖を二の腕までまくり上げ、続いて懐から注射器を取り出した。
 「わーっ! な、何すんだー!?」
 びっくりしたトッドは、大暴れしてあらがった。
 「じっとして! 動くと手元が狂って痛い目を見ることになりますよ」
 「じっとしてたって痛い目見せる癖に。やめろー! これは子供向けアニメだぞー!? わーっ!」
 ブスリと、注射針が血管に突き刺さる。そして、液がゆっくりと体の中へ入って行く。
 「毒じゃありませんよ、ただの麻酔薬です。なぜそう思うのか全く理解出来ませんが、貴方が途中で『帰りたい』と言うだろうと思って、あらかじめ用意しておいたのです。クロロフォルムには耐性が出来ていて効かないかもしれませんからね。なあに、ほんの数時間ばかり、死んだようにぐっすり眠るだけですよ。しかし、まさか、こんなに早く帰りたがるとはね。 おや、もう効いてきたようですね。流石は新薬……」
 ヘッドハンターの説明は、もうトッドには聞こえていなかった。
 遠のく意識の中で、トッドは、泣いている教授を見たような気がした。



 キュッペタッ、キュッペタッ、という、何とも形容しがたい音をさせて、煉瓦建ての屋敷の壁を、クレイジークライマーよろしく、よじ登って行く二つの影。言うまでもなく、モリアーティ教授とその部下スマイリーだ。
 奇妙な音をさせているのは、どうやら彼らの手足に取り付けられている、便所掃除道具の先のような吸盤らしい。教授ご自慢の発明品の一つだ。
 やがて、壁を上り詰め、目的の窓までたどり着いた二人。
 教授が、壁に張り付いたまま懐から取り出したコンパス状のガラス切りで窓ガラスをくりぬきカギを開け、そこから屋敷の中に忍び込む。
 中に入った教授は、素早く吸盤を脱ぎ捨て、自力ではい上がることが出来ず壁に張り付いたままのスマイリーを、部屋の中に引き上げる。そして、これまた素早く、金庫のそばへ行きしゃがんで、右耳をぴったりと扉に張り付け、左手で金庫のダイアルをあわせにかかった。
 部屋は、しんと静まり返り、キリキリキリ、キリキリキリ、というダイアルを回す音以外何も聞こえない。
 その間、スマイリーは、カンテラで教授の手元を照らす。いつもはトッドがしている仕事だ。
 ダイアルを回し始めて二分弱、ピーンという高い音がしてカギが外れた。普段なら、三十秒もかからないのだが、どうも今日は調子が悪いらしい。
 教授は、極力物音を立てないように、ゆっくりと扉を開け、金庫の中に頭を突っ込んだ。
 スマイリーは、教授の背後からカンテラで照らしながらその様子をのぞき込む。その瞬間
 「くそーっ、ふざけおって!」と、教授は怒鳴り立ち上がろうとした。ところが、
 「あ、あぶない……」と言う、スマイリーの忠告も空しく、ガツンと、後頭部を金庫の天井にぶっつけた。
 「く〜〜〜」
 そうとう痛かったらしく、教授は頭を抱えて床にうずくまってしまった。
 「あー、いたそー……。教授、だいじょぶですかぁ?」
 「ふん、これくらい、なんともないわいっ!」
 教授は、スックと立ち上がり、強がって見せる。そして、マントをひるがえしスマイリーに背を向けると、
 「気付かれる前にズラかるぞ」と、元来た窓に向かった。
 「え? おタカラは? 『揚子江の魔女』は?」
 「ないんだよっ!」
 「ええーっ!? なんでー?」
 「これを見ろっ!」と、教授は、一枚の紙切れをスマイリーに渡した。その紙切れには、
 「ヘッヘーッ
  残念でしたぁ。
  お宝は、先に頂戴しました。
  アッカンベロンチョ
            ばーい トッド」
 と、アカンベするトッドの似顔イラスト入りで記されていた。
 「ぶっ!」と、スマイリーは思わず吹き出してしまった。
 「アッカンベロンチョだって……ククク……アニキらしいや」
 教授は、ピクピクと口の端をひきつらせながら、
 「うれしそおだな、スマイリー。ワシが出し抜かれたのが、そんなに楽しいか!」と、怒鳴り、スマイリーめがけて、ブンッと、勢いよくステッキを振り下ろした。
 「キャー、ごめんなさい教授」
 教授のステッキの撃退法を体得しているスマイリーは、わずかな動きで難なくかわす。空を切ったステッキは、ガコッバキッという大きな音を立てて床板をぶち抜いた。
 「ひえ〜〜」と、スマイリーは胸をなでおろす。もしも、これが、スマイリーの頭にヒットしていたら、ただでもバカなおつむが、もっとおバカになっていただろう。
 「! 教授、だれか来るよ」
 二人が、泥棒に来ていることもすっかり忘れて、騒がしいので、流石に誰かが気が付いたのだろう。足音がしだいに近づいてきて、ドアの前で止まった。続いて、カギを開ける音が聞こえる。
 「まずい、ズラかるぞ。スマイリーついて来い!」
 二人は、窓から外へ飛び出した。『こんなところから飛び降りたら……』などと、心配召さるな。二人とも、背中に秘密兵器を背負っている。リュックサック状になっているそれのベルトのところに付いているひもを、外に飛び出すと同時に引っ張る。と、リュックの両端からコウモリの翼のような羽が飛び出してきた。
 二人が、外へ出るのとほとんど時を同じくして、ドアが開き警備員が部屋に入って来た。
 「あっ! 泥棒! 大変だー、誰か来てくれー! 泥棒が出たぞー」
 警備員がそう叫んだが、時すでに遅し。コウモリ男の二人組は、四、五軒先の屋根の上までまんまと逃げおおせていた。



 明けて翌日の昼間。
 諦めの悪いことを美徳としている教授は、何とか、手に入れ損なったレッドダイヤ「揚子江の魔女」を奪い返そうと、自慢の秘密道具(ドラえもんか?)の手入れをしていた。
 何か具体的な計画があるわけではなかった。手掛かり(?)は、トッドが自分を出し抜いたのだということくらいしかない。
 いつもなら、トッドにスコットランドヤードにでも、横取りした奴のデータを探りに行かせるのだが、今回ばかりは、がめたのが当のトッドなのだからそういうわけにもいかない。
 計画は完全に手詰まりの状態だった。今までは、こんなことは一度もなかった。どれほど窮地に追い込まれても、何かしらアイデアがひらめいて、例え結果的には失敗しても、何とか切り抜けられたのに。
 スランプのマンガ家か、締め切り前の小説家の様な気分だった。気ばかり焦って、ちっとも何も浮かんで来ない。
 だから、道具の手入れをしているのだ。何もしていないと、つい、ろくでもないことを考えてしまいそうになる。
 しかし、それももう、マジックハンドのビスを締めれば終わってしまう。
 泥棒のゴールデンタイムの夜までは、まだまだ時間があるのに。
 「くそーっ、なんでこう、イライラするんだよっ! ワシの天才的な灰色の脳細胞はどこへ行っちまったんだ」
 教授はドライバーを壁に投げ付け、癇癪を起こす。
 しかし、すぐ
 「そうだ、茶でも飲んで落ち着こう。そうすりゃ、何か良い考えも浮かぶだろう。なんしろワシゃ天才だからな」と、気を取り直して
 「トッドー! ティータイムにするぞ! 茶を持って来い。トッドー!!」と怒鳴った。だが、
 「……あ……そうだ、あいつはおらんのだった……」と、我に返り、決まり悪そうに呟く。
 「もう! あいつがおらんと、茶も満足に飲めんわ! いてもいなくても、ワシに迷惑ばかり掛けおって……」
 自分のことはすっかり棚に上げて、ブツブツ文句を言いながら、渋々キッチンへお茶を入れに行く。
 そして、散らかりきったキッチンの戸棚を開けて
 「確かこの辺に、あいつが、デガラシの茶っ葉を乾燥させた奴を片付けてたと思ったんだがなー」と、物色する。
 ところが、見つけだした茶筒は空っぽだった。
 「なんだい、切れとるのか……。トッドー! 茶っ葉はここにしか……。あ……。重症だな、ワシも」
 同じ過ちを二度も繰り返してしまい、教授は淋しげに苦笑する。
 トッドは教授にとって、空気のように、いて当たり前の存在だった。一緒に暮らし始めてそれほど時間が経っているわけではない。にもかかわらず、トッドたちは、教授との生活にピッタリはまった。ジグソーパズルの最後のピースのように。
 だから教授は、こんなふうにその暮らしに終わりが来るとは、夢にも思っていなかった。実際今でも、その現実が受け止められないでいる。
 何がいけなかったのかとか、あの時こうしていれば良かったとか、過ぎたことを振り返るのは嫌いだった。やり直しのきかない過去にしがみつくのは、愚か者のすることだと思っていた。どんなに後悔してみても、いなくなったトッドが帰って来るわけではない。
 「出て行く」と言ったトッド。「出て行け」と言った自分。それは曲げることも変えることも出来ない事実だ。そして、もう、トッドはここにはいない。それもまた、どうしようもない現実である。それは良くわかっていた。
 なのに、この説明のつかない、落ち着かない気持ちは何だ? 体の一部がなくなってしまったかのような不自由さはどうしたわけだ?
 そんなことを、ぼんやり考えていた教授は、足元にあったゴミ箱に気が付かず、うっかりズボッと片足を突っ込んでしまった。
 「誰だよっ! こんなとこにゴミ箱置いたのは」
 ゴミ箱は、教授の足のサイズに調度ピッタリだったらしく、足を持ち上げても脱げなかった。ブンブン足を振り回しても無駄だった。床に座り込んで両手で引っ張ってみる。
 「痛ててて……、くそー、脱げん」
 ただでもナーバスな気分だったのに、この仕打ち。短気な教授は、だんだんイライラしてきた。自分を見限ったトッドにも、トッドを捨てた自分にも腹が立った。
 「くそーっ! このぉー!!」と、教授は、履いたままのゴミ箱を、食卓の脚に何度も叩きつける。
 すると、うまい具合にゴミ箱の口の部分が脚に引っ掛かり、あんなにしっかりくっついていたゴミ箱が、教授の靴と一緒にスポッと足からはずれた。その代わりはずれた勢いで、教授はしりもちをつき、ゴミ箱は壁まで飛んで行って具を撒き散らした。
 それは、教授をさらにブルーな気持ちにさせた。もう、なんにもしたくなくなってしまった。
 しかし、裸足は嫌なので、仕方なくのろのろと立ち上がり、ゴミ箱のそばままで靴を取りに行く。
 靴を拾おうと屈んだ時、散らばっているゴミの中の小さな紙切れが目に止まった。なにげなく、教授は、それを拾う。
 「なんじゃ、こりゃ……ん? こ、これは!?」



 夕方、教授は、プテラノドンの操縦桿の下に潜り込んで、エンジンの整備をしていた。
 今度は、確たる目的があってのことだ。
 「スパナー!」と、教授は頭を突っ込んだまま手だけ伸ばして、そばに助手として控えているスマイリーに言う。
 「はい」と、スパナーを渡すスマイリー。
 ナットを締め終わり、スパナーを返す代わりに
 「ドライバー」と、教授は要求する。
 ところが、工具箱の中には、いろんな種類のドライバーがたくさんあって、どれを渡せばいいのかわからない。
 「遅い! 早くしろよ」と、せかされて仕方なく、適当に掴んだドライバーを渡す。それも、柄の方ではなく先の方を教授に向けて。
 「痛てっ! 危ないだろう、持つ方向けて渡せよ!」
 「あ……ごめんなさい……」
 「ん? こりゃ、マイナスのドライバーじゃないか! しかも、サイズが全然違うぞ!! 何やっとるんだ、トッド! お前ともあろう者が……」
 教授は、やっと頭を出し、スマイリーの方を向いた。そして、
 「あ……」と、口ごもる。
 「ごめんね、教授。ボク、アニキじゃないから、あんまり役に立たなくて……」
 「う……す、すまん」と、ガラにもなく素直に謝る教授。
 その瞬間、
 「えっ!? ええーっ!!」と、スマイリーは奇声を上げて、ものすごい早さで、壁に激突するまで後ずさる。そして、
 「こ、こわいっ! こわいよぉ。教授が、教授があやまってるう〜! 神様ごめんなさい。ボクが悪かったんですぅ」と、懴悔のポーズをして泣きわめいた。
 その、あまりといえばあまりのリアクションにムッとした教授は、
 「そんなに驚くことか! ワシが謝るのはそんなに怖いか!?」と、拳を振り上げた。
 「きゃー!」
 殴られると思って頭をかばうスマイリー。しかし、教授は、深いため息をつくと、ゆっくり拳を降ろした。それから、肩を落とし、プテラノドンに戻ると、作業を続けた。
 「きょ、教授……」
 「なんだよ!」
 背後から、恐る恐る声をかけたスマイリーに、教授は整備を続けながら、振り向きもせず答える。
 「もう、ボク、『揚子江の魔女』なんて、どうでもいいよ……」
 「なんで?」
 手を止めて振り返る教授。そして、怪訝そうに
 「肉食いたいんだろう? 『揚子江の魔女』さえあれば、ステーキだろうが丸焼きだろうが何でもたらふく食えるんだぞ。お前の好きな苺のショートケーキだって食べ放題だ」と、尋ねた。
 「い、イチゴショート……ああ……食べたーい……」と、スマイリーは、教授の悪魔の囁きに、涎を垂らして生クリームの甘い妄想にふける。が、ブルブルッと頭をふって正気に返ると
 「そーじゃなくて、ケーキよりも、もっとずっと大事なものがあるでしょう?」と、教授に詰め寄った。
 教授には、スマイリーの言いたいことは良くわかっていた。だが、いかんせん、教授はスマイリーほど素直ではなかった。
 「フン! お宝より大事な物なんかあるかい。あるとすりゃ、ワシのプライドだな。『揚子江の魔女』を取り戻さなけりゃ、ワシの面子はまるつぶれだ」
 「本気でそんなこと思ってるんですか!? 教授がそんなこと言ってるうちは、ぜったいアニキは帰って来ないよ!! 教授なんか大嫌いだ!」
 トッド以上に温厚なスマイリーが、ものすごい剣幕で教授に食ってかかった。
 もともと、怒る意欲の失せていた教授は、その勢いに気圧されてたじたじとなる。
 「そ、そんな、怒るなよ……」と、教授は渋い顔で苦笑しながら、ささやかな抵抗を試みたとき、スマイリーの瞳の違和感に気付いた。
 「な、何だよ……お前、泣いとるのか?」
 「泣きたくもなるよ! 教授が、そんなに冷たい人だったなんてさ。アニキがかわいそうだよ。宝石の方が大事なんて……。だいだい、取り戻すなんて言ったって、あれはもともと教授の物じゃないんだし、第一、アニキがどこにいるかわかんなきゃ、取り返せるわけないじゃないですか!」と、スマイリーにしては珍しい長めの台詞をまくしたて、さらに教授を罵った。
 だが、教授は、その言葉に打ちひしがれるどころか、我が意を得たりとでも言うような得意げな顔になり、
 「ふっふっふっ……、それについては、ぬかりはない。ジャーン!」と、言って、内ポケットから小さな長方形の紙片を取り出した。
 「これを見よ!」
 「あっ! 名刺!! これって、アニキをひきぬいたヘッドハンターとかいう人の?」
 「いかにも。後ろを見てみろ」
 「え?」と、スマイリーは後ろを振り返った。
 「ばかもん! その『後ろ』じゃない。名刺の裏だよ! まったく、お約束のギャグをかましおって……」
 「あ、そーか」と、やや怒りの静まったスマイリーは照れ臭そうに頭をかきながら、教授から名刺を受け取り、ひっくりかえす。
 「あ……」
 名刺の裏の地図に気が付いた。
 「間違いなく、トッドはここにいる。今夜取り戻しに行く。そのためのプテラノドンの整備だよ」
 「うわーい! 教授、だぁ〜い好き 」と、スマイリーは、教授の首に飛びついた。
 つい先刻まで「大嫌い」と喚いていたくせに、すっかり機嫌は治ったようだ。現金なものである。
 「か、勘違いするなよ。あくまで取り戻しに行くのは『揚子江の……」
 「わかってますよ。お宝のついでに、アニキもつれもどすんですよね」
 「そ、そうだよ。わかってりゃいいんだ。いいか、トッドはついでだからな、ついで!」
 「はいはい。まったく、素直じゃないんだから……」
 「何? 何か言ったか?」
 「いいえ、なーんにも。やっぱり、教授はいい人だなーって言っただけですよー」
 「ば、バカモン! 好い人で犯罪者が務まるか。くだらんこと言っとらんと、とっとと準備しろ!」
 「はーい



 夜半過ぎ。
 例の屋敷の裏手の下水道の中を、屋敷に向かって進む二人組み。
 「ボクたちって、ホントにこういうとこがにあうねー」
 悪臭漂う中を歩いているのに、スマイリーはどこか少しうれしそうにしていた。
 「ゴチャゴチャ言わんでさっさとついてこんか! ピクニックに来てるんじゃないんだぞ」
 突き当たりまで来て、
 「スマイリー、お前先に行け」と、教授。
 「え? ここにとびこむの? なんか、やな予感がするなー」
 「そのための水中服だよ。四の五の言っとらんで、とっとと行け!」
 教授は、スマイリーの背中を蹴っとばして、無理やり飛び込ませた。
 二人は、さらに悪臭のする液体の中を目的地目指して進む。
 しばらく泳ぐと、頭上にぽっかりと丸く口を開けた出口が見えてきた。
 スマイリーは、出口から頭を出して周りを見、うっかり叫び出しそうになった。
 「後が、つかえてるんだよ。早く外へ出ろよ」と、教授が、ためらっているスマイリーを促す。
 「は、早くったって、教授、ここ、トイレじゃないですかー!」



 トイレの前のフロアは、吹き抜けになっていて、左側が階段になっていた。
 二人は、二階と階下の二手に分かれて捜すことにした。
 時間のせいか、辺りは真っ暗でシンと静まりかえっている。
 「やだなー、なんだかオバケ屋敷にいるみたいだよ……。一人なんて心細いなー」
 スマイリーは、今まで一人で仕事をさせられたことなどほとんどない。そのせいか、一人にされてまだほんの数分しか経っていないのに、もう、孤独にたえられなくなってしまった。
 「広いお屋敷だよなー。曲がり角が山ほどあるよ。……ええと、あれ? 今、僕、どっちから来たんだっけ? 確か、ここを曲がったら階段が……あれー、ない。ああー、どうしよう、戻れない。道に迷っちゃったよー、教授ぅ」
 ああ、情けない。何というザマだ。今日の夕方はあんなにしっかり、教授の手綱を取っていたから、少しは頼りになるかと思っていたのに。やはり、モリアーティ一味にはトッドが必要なのだ。



 そのころ教授は、二階の廊下にいた。
 一階がどういう造りになっているのかよくわからないが、二階はとにかく入り組んだ構造になっていた。もし、火事がおきたら、間違いなく全員焼け死ぬだろうと思うほど。
 にもかかわらず、教授は目的の物がある部屋に難なくたどり着くことが出来た。
 理由は簡単だ。廊下の壁のところどころに、この部屋までの案内の矢印がはられていたからだ。
 モリアーティ教授は、失敗ばかりのダメな犯罪者だが、馬鹿ではない。初めの矢印を見た瞬間、これが罠であることを悟った。
 それは、屋敷の警戒が隙だらけだということからも、薄々勘付いていた。
 にもかかわらず、この部屋まで来てしまったのは何故なのか、自分でもよくわからなかった。
 『このドアを開けてはいけない、開ければ敵の思う壷だ』と、思っているのに、教授の手はノブを握っていた。
 ドアを開いて中に入ると、暗かった部屋に突然あかりがついて、昼間のように明るくなった。
 「ようこそ、モリアーティ教授」と、遠くの方で声がした。
 その部屋は、小学校の体育館くらいはあろうかと思われるほどだだっ広かった。そして、壁には著名な画家たちの絵画が、有名な物からマニアックなものまで、何の脈絡もなく数百点も飾られ、フロアには、これまた著名な芸術家の彫刻や、金無垢の仏像、値打ちのありそうな骨董品、その他もろもろの宝物が、所狭しと並べられており、ちょっとした美術館のようだった。ただし、とてつもなく趣味の悪い。
 「貴方は、必ず来ると思っていましたよ。いいえ、来てもらえないと困ります。なにしろ、今度の茶番は、私が貴方にどうしてもお会いしたかったからですからね」
 「なに! なんだと! そりゃどういう意味だ!? くそーっ、どこにいるんだよ、姿を見せろ!!」
 雑然と並んだ書画骨董が邪魔で、声の主がどこにいるのか皆目見当がつかない。
 「こちらですよ。そこの観音像の前まで来れば、我々の姿が見えるはずです」
 「我々?」
 一人しか声がしないのに『我々』とは、どういうことだ? その意味は、観世音菩薩の前へ来てわかった。
 「トッド!」
 声の主の脇に立っているトッドのそばへ、教授は思わず駆け寄ろうとした。が、
 「ストップ! それ以上近づくと床が抜けますよ。この部屋は防犯用のトラップがいっぱいですからね、気を付けて下さい」と、声の主がからかうように言う。
 本当か嘘かわからないが、相手の正体がわからない以上言う通りにするほかはない。
 しかし、この位置からでは、相変わらず障害物達のせいで、トッドのそばに誰かが立っているらしい、という程度にしか声の主の姿が見えない。
 「貴様がボスか? トッドをどうするつもりだ? 一体何が目的なんだ!?」
 「おやおや、すごい剣幕ですね。でも、質問は一つずつ順番にお願いしますよ。しかし、まあいいでしょう。貴方には私のことを知っておいてもらいたいですからね。
 まず、一つ目の質問ですが、答えはノーです」
 「……」
 「私は、この組織のボスではありません。ヘッドハンターですよ」
 「トッドを誘惑した奴か!?」
 「人聞きの悪いことを……。引き抜いたと言っていただきたいですね」
 「何のために!」
 姿もはっきり見せず、小馬鹿にしたようにしか答えないヘッドハンターに腹を立てた教授は、イライラしたように怒鳴った。
 「もちろん、貴方のその類い希なる独創的な灰色の脳細胞を、私のものにするためですよ」
 「な……」
 教授は言葉を失った。思っても見なかった答えが返ってきたからだ。
 「貴方の度重なる失敗は、決して、貴方の才能がシャーロック・ホームズより劣っているからではない、おそらく、経済的な事が理由ではありませんか?」
 ヘッドハンターの言葉は、教授の人並みはずれて高い自尊心をくすぐった。
 「だから、ワシに、貴様の下で働けと言うのか」
 「ええ、我フェニックス商会が、貴方のスポンサーになりましょう。悪い話ではないでしょう」
 「スポンサー? ふざけたことを。……ワシを誰だと思っとるんだ。犯罪界のナポレオン悪の天才モリアーティ教授だ。ワシは誰のものにもならん! ワシの脳髄はワシだけのものだ!! 誰の部下にもなる気はないわ!!」
 何というプライドの高さだろう。神をも恐れぬこの台詞。
 「そう、おっしゃると思ってましたよ……。やはり、一筋縄ではいきませんね。喰えぬお人だ。仕方ありません……トッド君、教授を説得しなさい」
 「教授、俺ト一緒ニコノ人ノトコロデ、働キマショウ。すまいりーモ呼べバイイ。教授トコノ人ガ組メバ、ほーむずナンカ敵デハアリマセンヨ」
 トッドの、国語の本でも読むような抑揚のまるでない台詞を聞いて、教授は初めてトッドが、縛られているわけでもなんでもないことに気が付いた。同時に正気ではないことにも。
 「トッド! 貴様、トッドに何を……わあぁー」
 頭に血が上ってカッとなった教授は、忠告されたことをすっかり忘れて、前へ一歩踏み出してしまったのだ。その途端、ズホッと床が抜け、教授は奈落の底へ落ちて行った。
 「あーあ、だから言ったのに……。教授ー、大丈夫ですかー?」と、ヘッドハンターは、床が抜けて出来た穴を覗き込む。
 「……」
 返事はない。
 「ま、すぐ戻ってくるでしょう」と、言って、ヘッドハンターが立ち上がった。するとそこへ、まるで8マンのような猛烈なスピードで教授が戻って来て、ヘッドハンターの襟首を掴んだ。何だか、プーンと嫌な匂いがする。そう思うと、一張裏の純白のタキシードはずぶ濡れで、心なしか黄ばんで見える。
 「どこから戻って来たかわかってるな……味な真似をしおって。もう、許さん! こうしてくれるわ!!」と、教授は、ヘッドハンターに抱きついて汚れと匂いを擦り付けた。
 「うわあー、やめろー! ウ〇コ臭いー!! ああっ、ベルサーチのジャケットに染みが……」
 ヘッドハンターは、教授を引きはがそうともがいた。が、
 「何が、ベルサーチだ、このタコが」と、教授は、まったく離れようとしない。
 「やめて欲しけりゃ、トッドを返せ」
 「連れて帰りたければ、どうぞ、御勝手に……。でも、トッド君は、自分の意思でここにいるんですから、きっと、帰りはしませんよ」
 「ウソつけ! トッドがそんなこと思うはずがない! 貴様、トッドに何をした!!」
 「ずいぶんな、自信ですね。あんなにひどい扱いをしておいて。なら、どうぞ、連れてお帰りなさい。どうせ無理ですがね」
 「トッド、ワシと一緒にアジトへ帰ろう」
 教授は、いつもよりずっと優しくそう言って、トッドの手を取った。ところがトッドは、
 「イイエ、俺ハ帰リマセン。ココニ残ッテコノ人ノタメニ働キマス。教授モ一緒ニ、ココデ働キマショウ」と、またもや、コンピューターの声のように無感情に言った。
 「ほらね」
 ヘッドハンターは、勝ち誇ったようにそう言った。そして、
 「トッド君と一緒にいたければ、貴方もここに残ることです。そうすれば、今までどおり、彼を貴方の部下につけてあげますよ」と、華奢そうな美しい顔に似合いの悪魔的な笑みを浮かべた。
 「貴様、一体、何者だ? その狡猾さといい不敵さといい、ただの三下じゃなかろう」
 「フフフ……。お褒めに預かり光栄です。流石はモリアーティ教授、と言いたいところですが、残念ながら、今のところはまだ私は一介の雇われヘッドハンターにすぎません」
 「まだ? 『まだ』ということは、いずれはボスになろうという気だな。そのためにワシを利用しようって腹か」
 「困りましたね。そこまで見抜いていらっしゃるとは」と、言いながらも、ヘッドハンターは少しも困った顔はしていない。
 「ですが、こんなちっぽけな組織のボスになろうなんてさらさら思っちゃいませんよ。今のところここが倫敦一財力のある組織だから、雇われているまでのことです。ボスも腕っ節だけでのし上がって来たボンクラな男で扱い易かったし、調度良かったんです。モリアーティ一味をつぶすためだと言ったら、喜んで計画に乗って来ましたよ。貴方、泥棒仲間からは、ずいぶん嫌われていらっしゃるみたいですね」
 「大きなお世話だ! そうか、どっちに転んでも、貴様に損はないわけか……。イエスと言えばワシと組んで組織を乗っ取る……。で、ノーと言えばワシを殺す……」
 「そうはならないことを望んでいますよ。なにしろ貴方は、私などのような新参者よりも、シャーロック・ホームズのことを良くご存じだ。倫敦を手に入れるには、あの名探偵は目障りですからね。是非とも貴方のご協力を仰がなくては。
 どうです? 利害が一致していると思いませんか? 私と組むことに、どんなデメリットがあるというんです?」
 「ペラペラと旨そうなことばかりまくしたておって! その口でトッドを丸め込んだな! だかな、ワシはそうはいかんぞ。そんな胡散臭い話に乗るほどお人好しではないわ!!」
 「では、どうしても、私と手を組むのは嫌だとおっしゃるのですね」
 先刻までは、冷たいながらも、うっすら笑みを浮かべていたヘッドハンターだったが、今はもう笑っていなかった。蝋人形のような堅い表情をしているだけだ。教授を刺すような瞳で見つめている。そして、言った。
 「でも、貴方には初めから、選択の道はないのです。貴方の子飼いのトッド君は、私の手中にあるのですから。生かすも殺すも、私の胸の内一つ。私の機嫌を損ねない方が、賢明だと思いますが」と。
 「卑怯者め……」
 教授は、キッとヘッドハンターを睨みそう呟いた。すると、感情のないアンドロイドの表情が、見る見るうちに酷薄な悪魔のそれに変わり、薄い唇の端が僅かに上がった。そして、
 「クックック……アッハッハッハ……」と、嘲るように笑った。
 「何がおかしいっ!」と、教授はムッとする。当然である。
 「だって仕方ないでしょう。『卑怯者』など、我々悪党には、最高の賛辞ではありませんか。それが、貴方の口から出るとは思いませんでしたよ。貴方だって、今までそうとう、悪辣で卑劣なことをして来たのではありませんか? その貴方が『卑怯者』とは、笑止千万。もっとも私は、貴方の比ではないほど冷酷な悪魔ですがね」
 そう言って、ヘッドハンターは、またも哄笑した。
 カッコイイ……格好よすぎるぞ、ヘッドハンター。一体、誰が主人公だ。
 「フンッ、そんな挑発にこのワシが乗せられると思うのか。愚か者め」と、教授も負けずにカッコつける。これが既に挑発に乗っていると言うことだとも気付かず。ま、それが教授の良いところなのだが。
 「では、トッド君はどうなってもいいと? 今のトッド君は、私のためなら何でもしますよ。貴方のお嫌いな殺人も。私が『教授を殺せ』と命ずれば、迷わず実行するでしょう」
 「ワシが欲しいんじゃなかったのか?」
 「もちろん、それは例えです。貴方を殺すつもりはないことは、わかっていただけたと思いますからね。ですが、それくらい彼は私に従順です。そばにいて、見張っていてあげないと、彼はどんどん汚れて行きますよ」
 「くそーっ、どうすれば、元に戻るんだ!?」
 「さあ? 新薬を試してしまいましたからね、どのくらいの効き目なのか……。解毒剤もありませんよ。なにしろ新薬ですからねえ。クックックッ……」
 「薬を使ったのか! 貴様ぁ、許さん!!」
 相手の口車にうっかり乗せられぬよう、出来るだけ感情を押し殺していた教授だったが、とうとう、堪忍袋の緒が切れ、ヘッドハンターを押し倒し、馬乗りになって殴り掛かった。
 しかし、トッドに強く腕を掴まれて、殴ることは出来なかった。
 「よくやった、トッド。そのまま教授を取り押さえろ」
 トッドは命ぜられるまま、教授を羽交い締めにする。
 「トッド、正気に戻れ! 何をしているのかわかってるのか!?」
 トッドには、教授の声はまるで聞こえていないのか、何の反応もない。
 「無理を言ってはいけない、彼は今、自分の意思では、指一本動かすことは出来ないのだから。さあ、モリアーティ教授、観念して私に従いたまえ」
 「誰が、貴様のような腐れ外道に従うか! ワシの可愛い部下をこんな目に遭わせおって!!」
 「可愛イ部下……」
 教授が、怒りに任せて叫んだ途端、トッドの手の力が緩み、教授は体の自由を取り戻した。
 その瞬間だった。
 バリーン! ドカーン! スザザザザザザーッ!! ものすごい音とともに、何か巨大な乗り物が、ヘッドハンターの真後ろの大きな出窓をぶち破って侵入して来た。書画骨董や調度品をことごとく破壊して。
 「教授ー、無事ですかあ!」
 やって来たのは、スマイリーの操縦するプテラノドンだった。
 「良いタイミングだ、よくやったぞ。だが、なんで、ここがわかった?」と、教授は言いながら、自分がプテラノドンに乗り込むと、この機に乗じてとばかり、トッドを引き上げた。
 「え? 歩き回ってたら、なんか、外に出ちゃったから、で、なんとなく……。あ、アニキー! よかったあ。じゃ、逃げましょう、教授」
 スマイリーが、機体を浮上させようとすると、
 「待て」と、教授は止めた。
 「ええー、なんでー。もう、アレはいいじゃないですか」
 「アレ? アレって何だ? いいから、ピストルをよこせ!」
 「ええっ!?」
 「早くっ!」
 教授は、スマイリーから銃を受け取ると、ボロボロになりながら立ち上がろうとしているヘッドハンターに照準を定めた。
 「貴様だけは、絶対に許さん!!」
 教授が今まさに引き金を引こうとしたその時、トッドが教授の胴にしがみついて後ろへ引き倒した。そのせいで、弾丸はあらぬ方向へ向かって発射され、教授の目論みは失敗に終わった。
 「トッド、お前、まだ……」
 「違いますっ! 俺はもう正気ですよ。スマイリー、機体を出せ。こんなところとは、さっさとおサラバしようぜ」
 そう言った、トッドには、さっきまでの薬物による自己喪失状態の後遺症は微塵も感じられない。
 「なんで、邪魔をした!」
 「だって、教授に殺人なんか……。それに早く逃げないと、もうじき、レストレードが来ますよ。あいつ、失敗したときのために、スコットランド・ヤードに連絡してやがるんです。家宅不法侵入と器物損壊の現行犯で捕まっちまわないうちに、逃げましょう」
 「そうだよ。ボクつかまりたくないからねー」 
 スマイリーは、プテラノドンを浮上させた。と、同時に、レストレード警部と警官隊が、室内にトドッと押し寄せて来た。
 「やや、モリアーティ!」と、警部は叫んで、追いかけて来たが、すんでのところで、プテラノドンはもときた窓から外へ出てしまった。
 「くそーっ! モリアーティめー!!」
 地団駄を踏んで悔しがる警部が、プテラノドンからは、だんだん小さくなりやがて見えなくなった。



 変える道すがら機体の中で、
 「教授、ありがとうございました」と、トッドは深々と頭を下げた。
 「別に、礼をいわれるようなことをした憶えはないよ」と、教授は、少し赤くなってそっぽを向く。
 「へへーんだ。テレちゃって……。アニキがいなくなって、一番心配してたのは教授なんだよ」
 スマイリーは、二人が元の鞘に収まりそうなのがうれしいらしく、からかうように言った。
 「バ、バカモン! 誰が心配なんぞ……」
 「そういえば……ちょっと痩せたんじゃないですか?」
 トッドは心配そうに教授の顔を覗き込んだ。
 「えっ!? こ、これは……メ、メシが……そう! メシがまずいんだよ! スマイリーの作るメシはまずくて食えたもんじゃないんだよ。だから……お前の美味いメシがだな……」と、教授は、相変わらず明後日の方を向いたまま、人差し指で顎を照れ臭そうにポリポリと掻きながら言った。
 「教授……」
 トッドは、俯いて小さな震えたような声で、
 「やっぱり、俺のボスは……」と、呟く。
 よく聞き取れなかった教授は、
 「え?」と、聞き返したが、その先の台詞は、何故だかどうしても続けることが出来なかった。
 トッドは、一つ大きく深呼吸すると、気を取り直して顔を上げ、世界一幸せそうな笑顔で言う。
 「さ、早く、我が家へ帰りましょう。夜食は、腕によりをかけますよ。ダボハゼのムニエルだけど」





Happy End





 「あ、『揚子江の魔女』忘れた」




Un Happy End?



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