■ 闇に潜む真理 ■


開いたドアの向こうには、硬質な空気が凝ったようにわだかまっていた。
自室というのに、ここへ訪れるのは実に三ヶ月ぶりのことだった。
アルベルトは中に入ると、灯りもつけず電子ロックのボタンを押して設錠した。
部屋は冷たい闇だけに支配される。
最後にここを使った日、室内は暖かい空気に満たされていた。
盟友と共に茶を喫し、他愛のない会話を愉しみ、そして別れた。
「では、また明日ここで」
友はそう言って部屋を出た。
作戦の最終日前夜のことだった。
「また明日」
そう言った男はもういない。
世界のどこを探しても二度と逢うことはかなわない。
右目の奥が鈍い痛みを放った。
「う……」
低く小さな呻きを上げて、アルベルトは、まだ幾分焦点を合わせきれない新しい右目を指でなぞった。
閉じることの叶わぬ目。
闇の中にあっても暗黒を見ることのない瞳。
BF団の科学技術の粋を尽くして造られた義眼は、だが、本当に見たいものは見せてはくれない。
「ふっ……ククククク……」
乾いた笑いが部屋に響いた。
生身の左目に鮮血のようなフラッシュバックが甦る。
神々しいまでの純白の体を己が血潮で真っ赤に染めて、友はこの腕の中に倒れ込んだ。
「……アル……」
消え入りそうなか細い声で名を呼ぶ友の息は浅く早かった。
抱きとめた手が、腕が、胸が、そして背筋が、否、友を支える全身が、冷水を浴びせられたように冷たくなるのを感じた。
荒い息で友は語った。睦言のように。
「さようならだ……アル……ベルト……。とても残念だけれどね……。先に地獄で待っているよ……君は……君はゆっくり……おいで……。愛して……いたよ……」
もう聞こえるはずのない声が、アルベルトの鼓膜を震わせる。
──アイシテイタヨ。
忌まわの際まで、ただの一度も言わなかった言葉。
いや、一度も言わせなかった言葉。
それが壊れたレコードのように何度も何度も、耳の奥でこだまする。
不意に、両眼のブレが激しくなり視界が歪む。
天地の感覚が怪しくなって眩暈を覚えたアルベルトは、ふらつく足取りで部屋の中央へ進み、ソファに崩れるように腰を下ろした。
「ふぅ〜」と、深い溜息をついて、アルベルトはテーブルに手をついた。
と。
カチンと硬い音がして、何かが指先に触れた。
「これは……あやつの……」
黒いラバーストラップに大きめの紺の文字盤。
白い細身の針の一本は戦闘機を象られている。
ドイツの時計メーカーSinn社の出撃用計測機器シリーズ第一作。
十を数える永い付き合いの間、一度だけ、本当にただの一度だけ、ほんの気まぐれでアルベルトがくれてやった腕時計だった。
それがよほど嬉しかったのか友は、以来ずっと肌身離さず身につけていた。
もちろん最後のあの夜も。
アルベルトは友の形見を手にとって、文字盤に指を這わせた。
愛おしむように優しく。
「こんなもの遺して逝きおって……最期まで底意地の悪い奴だ……」
呟きは、罵声とは思えぬ甘い響きを伴っていた。
アルベルトは両手でそれを握りしめ、祈るようにその手を額につけた。
手のひらの中に収まったそれから、記憶の底に焼き付いて、けっして消えることのない匂いが、微かにアルベルトの鼻腔をくすぐった。
汗とコロンの入り交じる匂い。
それは、アルベルトしか知らない香りだ。
消えた友の肉体が、まるでここに還ってきたような奇妙な錯覚に囚われる。
そしてそれが、今、文字通り、他の誰でもない自分自身の手の中に収まっているという、倒錯した征服感。
──アイシテイタヨ。
再びあの声が鼓膜を震わせる。
ぞくりと背筋を痺れるような陶酔感が駆け抜けた。
鮮血に染まり苦痛に歪む友の顔と、汗にまみれ快楽に歪む友の顔。
二つが交互に甦る。
獲物を屠る獣の歓喜と、情欲に溺れる肉の悦楽。
相反するはずの二つが、胸の内で混ざり合い、ドロドロと形なく溶け崩れ、やがて欲望という名の悦びの種子になる。
だが、欲しいものは今はない。
この世の何処にも。
いつしかアルベルトは、我知らず自身を慰め始めていた。
くつろがされたスラックスの前から滑り込んだ右手が、猛る細鞘に絡みつく。
擦るように上下に動かすと、それは更に大きく膨張した。押さえ切れぬ友への情念のように。
「う……」と、喉の奥から小さく呻きが漏れる。
左手の中の友の名残は、心臓の鼓動のように時を刻んでいた。
その律動はアルベルトの心臓を締め付ける。
アルベルトは耐えきれずそれを唇に当てた。
命の証に似たリズムが、甘くせつなく、唇に伝わった。
──アイシテイタヨ。
そう囁くかのようにコチコチと鳴り続ける。
「セルバンテス……」
こみ上げる想いが友の名を呼ばせる。
自身を嬲る指は、アルベルトの意思を離れ、まるで友のそれのように、悦びの淵へと駆り立てた。
先端からジワジワと溢れ出す樹液が、右手の指を濡らしてゆく。
蜜にまみれぬめる指先は、容赦なくアルベルトを煽った。
堅く屹立する雄身の形を確かめるように蠢く。
切っ先に辿り着いて尽きせぬ泉の元を拭うと、そこから震えるほどの深い官能が湧き上がり、アルベルトを翻弄した。
「はっ……あっ、ああ……」
漏れる喘ぎを殺すことも忘れ、アルベルトはただ快楽のみを貪った。
左手に友を抱きしめ、在りし日の記憶をたどる。数えきれぬ幾多の夜の記憶を。己が身を高みの悦びへと導く、指を、腕を、声を、瞳を、その全てを。
思い出は触覚よりも深く強くアルベルトを刺激した。
いくつもの友の残像が左目に甦る。
作り物の右目が映す無機質で醒めた現実を遙かに凌駕する鮮明さで。
それは巨大な蛟(みずち)のようにアルベルトを頭から飲み込んで、そのまま彼岸へ連れ去ろうとするほど蠱惑的だった。
しかし、永遠に続くかに思えた甘い眩惑(ゆめ)にも、やがて終わりのときが来る。
友との永い物語もとうとう最期のページに辿り着いてしまったのだ。
緋色の記憶。
一面の紅の中に囁くように響く友の声。
──アイシテイタヨ。
背筋を電流のように激しい快楽が駆け上る。
「くっ……あっ、せ、セル……バンテス……。ワシも……ワシも、貴様を……ああっ!!」
アルベルトは左手の友を強く強く抱きしめ、深い奈落に堕とされるように自失した。
部屋に再び静寂が訪れる。
硬質な闇と沈黙。
気怠い体をソファに預け、アルベルトはしばらくぼんやりと天井を見つめていた。
だか、やがて体を起こすと、意を決したように立ち上がり、浴室へ向かった。
熱い湯は、ドロドロとした雑念を全て洗い流してくれるようだった。
風呂から上がったアルベルトは、鏡の前で身繕いを整える。
新しいシャツとスーツとネクタイ。胸ポケットにはハンケチーフ。
最後にあの腕時計を左手首に装着する。
「よし」と、ひとつ気合いをかけて、アルベルトはくるりと踵を返す。
大地にしっかり足をつけ、明日に向かって歩き出すために。
その顔はもうすっかり、友と二人であるいた頃の精悍さを取り戻していた。
しかし、アルベルトは気づいていない。
鏡の中の彼の背に寄り添うように映る白い影の存在に。
影は生前と同じアルカイックな笑みを讃えていた。
そして今はもう届かぬ声で優しく囁く。



──愛しているよ、アルベルト。死が二人を分かつとも、永遠に……。



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