■夜の無言(しじま)■



「あの男とあまり親しくなさるのはお薦め出来ませんな、社長」
男が私の側へ来て、耳元でそう囁いた。去っていく「あの男」を視線だけで追いながら。その目は、とてもいやらしい色をしている。下卑て低俗な色だ。
私が何も言わないのを良いことに、男はさらに言葉を続けた。
「あの男からは良い噂は聞こえてきませんからねぇ。元伯爵だか何だか存知ませんが、所詮は没落貴族ですよ。貴方のような高貴な方には似合わない」
私の耳元から口を離し、今度はごく普通の音量でそう口走る。「あの男」が視界から完全に消えてしまったからだろう。
「それに……漏れ聞くところによれば、あの男は良からぬ組織と通じているらしいですしね。先日の某国のテロ事件にも、あの男が……」
「ミスター。ご忠告いたみいります。ですが、ここでそういう話を声高になさるのは、貴方のお身の上にも関わりましょう。壁に耳あり。どこで誰が聞いているか……」
男の話の内容が、物騒なことになりかけたため、私は慌ててヤツの言葉を遮った。
が、男はまるで悪びれた風もなく、
「そうですな。剣呑、剣呑。しかし……お気をつけなさい。貴方は世界を統べる大企業の長たる方。あの男はもしや、貴方のお命を……考えられぬことではありませんぞ」と、限りなくよけいなお節介をやいてくれた。
失敗した。
この男の言うように、私は世界を統べる大企業、株式会社スカールの長だ。
我が社は清廉潔白クリーンな企業として名を馳せている。
スキャンダルは出来得るかぎり遠ざけねばならない。
なのに「あの男」と接触してしまった。
ここが、我が社が催したスポンサー様への接待パーティの会場であるという油断がそうさせたのだ。
そう。件(くだん)の「あの男」も、我が社に投資してくれている株主の一人なのだ。
「あの男」は群れることを嫌う。だから、今日も姿を見せてはくれないものと思っていた。
ところが、何の気まぐれだか、今日にかぎって……。
「失礼、社長。火を貸してくれますかな?」
そう言って近付いてきたのは、「あの男」の方からだった。
私は黙って「あの男」の葉巻にマッチで火を灯した。
条件反射だった。
「あの男」の葉巻に火をつける。それは二人だけでいるときの私の仕事だ。
が、今は……。
「壁に耳あり」。
他人事ではない。私は少々浮かれすぎていたのかもしれない。
「あの男」が表舞台(ここ)に表れてくれたことに。
「……社長、社長?」
不意に肩をたたかれ、私は驚いて顔を上げた。
目の前には男。下卑た、いやらしい目をした男が立っている。死んだ魚の目の色のような澱んだブルーアイズ。「あの男」の真っ直ぐな情熱の焔(ほむら)を灯した緋(あか)い瞳とは雲泥の差だ。
その気味の悪さが私を現実に引き戻した。
そうだった。私は今「仕事」の最中だったのだ。
どうしたというのだろうか、今日の私は。こんな男に付け入られるなど、隙だらけではないか。
「社長? ご気分でもお悪いのですか?」
魚の目の男が私の顔を覗き込む。
気分? 気分だと?
気分は、もうずっと悪い。お前が私に話しかけてきたときから。
だが私は、その苛立ちをぐっと飲み下す。
そして努めてにこやかに応えた。
「いいえ、ミスター。ご心配ありがとうございます。貴方のお言葉は大変為になった。心に留め置くことにいたしましょう」と。
私の言葉に、魚の男は満足げに微笑んだ。
「私」という太いパイプを手に入れた気でいるのだろう。愚かな男だ。私の心中など知る由もない。
今のうちにせいぜい喜んでおくがいい。
今度の「仕事」が終わる頃まで、お前の命の炎は燃えてはいまい。
本当に質が悪いのは「あの男」ではない。
「真実」をこの唇に乗せることのない私の方なのだから。



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