「では、ここと、こちらにもサインを」
若いが仕事の出来そうな面構えをした男が、事務的にそう告げる。
行政書士。たしかそんな名の職種だと名刺に書いてあった。
爵位など、とうに放棄したというのに、今でも時折、こういった書類にサインをさせられるハメになる。
財産分与がどうとか言っていたな。
興味ない。どうでもいいことだ。
一度も顔も見たことがない父方の曾祖父が、つい一週間ほど前、大往生を遂げたらしい。
法定相続分というのだそうだ。巡り巡って、この私にも、いくらかの財産が遺されているという。
家とは縁を切った私でも、血族であるというだけで、そういった煩わしいしがらみが、いつまでもつきまとう。
独りになれたと思ったのは、ただの錯覚でしかなかったことを、こういうときに、嫌というほど思い知らされる。
「けっこうです。お手数をおかけしました」
然るべき場所に然るべき記入を終えてペンを置いた私に、行政書士は杓子定規な言葉を述べる。
それからふと、窓に目をやり、今度はまるで独り言のように、自分の言葉を呟いた。
「ずいぶん雪が酷くなってきましたね」
言われて窓に目を移すと、なるほど外は大雪だった。
ここに入るときは、まだ、チラチラと粉雪が、紙くずのように舞っていたにすぎなかったのに、今は大粒の雪が、通りを挟んだ向かいのビルの姿さえ覆い隠すように深々と降っている。
「これは積もりますね」
行政書士が言う。
雪は嫌いではない。
他人にはない特殊な能力のおかげで私は、どんな極寒の地にあっても、寒さを感じることはない。だが、積もるのは、ちと面倒だ。
ことにこんな日は……。
早く帰って眠りたいのだ。煩わしいことは忘れて泥のように。
私は、どの程度積もっているのか確かめるため窓に近付いた。酷いようなら、交通機関がストップする前に車を手配する必要がある。
その考えは、行政書士も同様であったらしい。
「お車をお呼び致しましょうか?」
通りを見下ろす私に、そう訊ねてきた。
どうやらこの男は、見せかけではなく、本当に仕事の出来る人間のようだ。
だが、私はそれを断った。
「いや……いい。……連れが待っているのでな」
私はすぐにコートを羽織ると、にこやかに黙礼する行政書士を尻目に、法律事務所を後にした。そして、ドア横の階段を駆け下りる。この寒空に、阿呆な真似をしている馬鹿のところへ向かうために。



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